夏の思い出

今日は8月31日

小学生の時、夏休み最後の日は大体やらずに溜めてた宿題を徹夜でやっていた・・・

そして今、コラムの原稿締切り日(本来は28日)を忘れてて焦って書いている・・・

小学生の時から全く進歩していない※※BRK63の新「仏6(交流活動推進部長)」になった阿部です。
さて、夏休み時期は「お盆参り」が忙しい時期でもありますが、土曜学校や日曜学校(小学生対象の子供会)をしているお寺などでは、『サマースクール』を行うお寺もあります。

 

お寺の『サマースクール』とは?

 

夏休みに小学生対象で、お寺に半日~1泊して、お勤めしたり、お話を聞いたり、みんなでゲームをして遊んだり、色々な事を見て聞いて体験を通じて「助け合う心」や「感謝(ありがとう)の気持ち」や「やさしい心」を学んだり、「仏様(南無阿弥陀仏)」とのご縁をいただく行事。

以前は私のお寺でも日曜学校をしており『サマースクール』もしていたのですが、前住職(父親)が倒れた時から行われなくなりました。

また、近年地域の過疎化が進み子供が少なくなってきたので難しいと周りからも言われてたのですが、小さい時からお寺に馴染んで欲しいと思い、私が住職になった次の年から『サマースクール』をすることにしました。

『サマースクール』といってもお寺によって行う内容がかなり違い、子供たちとゲームをして遊ぶのが中心のお寺様や、遊ぶだけじゃなくクラフト等の体験学習もさせるお寺様などいろいろあります。

私のお寺ではゲームなどは殆どせずに体験学習が主で「何でも体験してみる」というコンセプトで、何でも子供達を中心にしてもらうことにしてます。

 

ちなみに今回はこんな感じでした。

受付

レクリエーション(正しい合掌・礼拝の仕方や、お経の練習など)

開会式(お勤め・挨拶・諸注意など)

夕食準備(今回はBBQだったので)

男の子は炭に火をつけたり
(「あつい~」と叫びながらもみんな一生懸命うちわで火をおこす)

 

女の子は食材を切ったり
(「危ないって!これどう切るの!?」と必死な女の子)

 

BBQ後はキャンプファイヤー

みんなで輪になり「キャンプだホイ」「燃えろよ燃えろ」を歌ったり

 

みんなで花火をしたり

 

お寺に一泊して

朝は地域の人とラジオ体操

 

朝ごはんとお勤め前に本堂を掃除する
(「お腹すいた~先生まだ!?」と言いながらもしっかりお掃除してくれました)

朝ごはんを食べたら

夏休みの宿題などお勉強

そして今回のクラフト体験学習は「お念珠づくり」

仏様にお参りする時に必要な仏具であること等を話して開始

みんな自分の好きな色の珠を選んで紐を通して房を編む
(「紐が親玉にうまく通らない!」とか「先生、紐が思うように編めない!」と大人も子供もみんな真剣)

苦労しながらもなんとかみんな完成♪
(世界でたった一つのオリジナル念珠)

本堂を片付けて閉会式

お供えのお菓子「おさがり」を配る

待ちに待った「そうめん流し」と本堂内で「スイカ割り」
(「取れんかった~もっと流してー!」「ゼリー流してー!」など色んな声が飛びう)

※地域ふれあいの会(老人会のようなもの)と合同で行うので『サマースクール』閉会式が先になるのですが・・・

最初の年は参加する子供も9名と少なかったですが、5年目(5回目)を迎えた今年は24名(外孫さんも多いですが)とかなり増えました。

 

 

『サマースクール』を通じて

普段子供達がしないような事や、クラフト体験学習では毎回オリジナルのものを創る過程で「自分の思い通りにはいかない」とか、周りの友達との協力などを通じて自分中心ではないと少しでも感じてほしいな~と思います。

しかし、実際は子供達の質問や行動は毎回私を育てて(気づかせて)くれる事が多かったり、お手伝い下さる仏教婦人会さんなどがいてくれるからこそやれるんだと思います。

「おかげさま」「ありがとう」と今後も続けていきたい大事な行事。

 

「昔お寺で鬼ごっこして走り回ったの面白かったよ。」

「お寺でやったキャンプファイヤーってすごかったから今も覚えてるし、子供にも体験してもらいたい。」

「お経長くて正座で足しびれて立てんかったんよね。」

「必ず夕食がカレーだったわー」

「初めてお寺(本堂)に泊まったの怖かったけど、友達とずっと話してて楽しかったの覚えてるよ。」

 

『サマースクール』に参加してくれてる子供の親御さん(私と同年代)が、境内を走り回る我が子を見ながら、昔の日曜学校に来てた時の事を思い出しながら話してくれた。

 

お寺(仏様の前)でしか味わえない

「夏の思い出」

ありますか?

つくってほしいです。

 

筆者  阿部 司苑

 

婆伽梵(バカボン)

『天才バカボン』の作者である赤塚不二夫さんは富山県の出身で浄土真宗のご門徒さんなのだそうです。北陸地方は、昔から北陸門徒と呼ばれ、浄土真宗の盛んな土地柄です。浄土真宗が盛んであるということは、浄土真宗の特徴であるお寺に参り、教えを聞くことを大切にされていた環境で育っていかれたということです。幼き頃よりお寺でお話を聞かれていたのでしょう。

代表作である『天才バカボン』の「バカボン」という名称は仏教のお話に出てきます。古来、仏さまをそのお徳から様々な呼び名で呼んできました。目覚めた方である仏陀(ブッダ)、世を超えた尊い方である世尊、釈迦族の出身であるお釈迦さま、など・・・。
その一つにインドの言葉(梵語)で「バガバット」、中国に伝えられ「婆伽婆」「婆伽梵」などと音をとって漢字に翻訳される言葉があります。意味としては、「大きな徳を成就された方」、または「煩悩を破られた方」などをあらわします。ですから『天才バカボン』の「バカボン」は、元々は仏さまを褒め讃えた言葉なのです。

『天才バカボン』の主人公は、破天荒なバカボンのパパであり、口癖は「これでいいのだ」というセリフが有名です。単なる変わり者であり、開き直った口癖のように思いますが、世間の常識を悉く壊していく所にストーリーの面白さがあるように思います。

仏教の教えも同じように世間の常識を打ち壊していく中で新しい仏教的価値観をその人の中に生み出していきます。あらゆる煩悩のとらわれから解放されていくことが仏教の教えの根本ですが、バカボンのパパのような生き方は、まさに何事にもとらわれることない解放された常識を超えた新たな価値観があります。私たちもそのように生きることができれば楽しいとは思いますが、現実はそれぞれの境遇があり、立場があるので自由自在には生きることはできません。その中で私はバカボンのパパの生き方を見ながら、自分にももっと何か出来るのではないかと新たに挑戦するヒントと勇気をもらっています。

『天才バカボン』には、バカボンのパパを代表として、バカボン、バカボンのママ、はじめちゃん、ウナギイヌ、レレレのおじさんなど個性あふれる人物が登場します。レレレのおじさんも実際にお釈迦様のお弟子であったチューダパンタカ(周梨槃特)がモデルであると言われています。物忘れのひどいチューダパンタカはホウキをもって「塵を払い、垢を除こう」と毎日の掃除を通して仏道を大成していきます。それぞれの個性を個性として認め、輝いていける仏教の世界を赤塚不二夫さんは私たちに問い掛けているのではないでしょうか。

筆者 苅屋光影

BRK63

まなし
ちなし
みなし
どうも、矢追です

この度、HP担当の先輩より
ご依頼受けまして
私でいいのかなと思いつつ
頑張らせていただきます

さて 巷では
AKBの総選挙なんてのがありまして
一部盛り上がったようですが
備後の地にもあるんです

「BRK」

そしてその総会が
6.19に行われるということで
潜入したことを
レポートしていきます

(開始5分前:嵐の前の静けさ)

昨年とは違い
緊迫した雰囲気で
始まった総会

それもそのはず

今年は2年に1度の
先発総選挙(役員改選)の年

会員一同
今期のセンター(会長)は
誰だろうかと
わくわくピリピリしております

私あまりの緊張に手が震えたのか
以下写真が基本的にブレブレです
何卒ご容赦ください

ここで
現「仏6」(役員執行部)の
お写真が手に入りましたので
振り返ってみます

(会長 大淵英範氏)

笑顔の素敵な
優しい先輩
コメント:「にやけてるけど、大丈夫?」

(研修部長 河村祐昭氏)

包容力のある
優しい先輩
コメント:「写さんとってよ~」

(交流活動推進部長 山下瑞円氏)

突破力のある
優しい先輩
コメント:「アップしたら2000アクセスは増えるで」

(広報部長 田坂英尊氏)

企画力のある
優しい先輩
コメント:「まだまだやれます」

(事務局長 伊川大慶氏)

なんでもできる
マルチなお方様
コメント:「何?何ですか?」

(会計 島津慧氏)

interestingな
お方様
コメント:「お金が好きになりました」

訳:「会計処理をするなかで、確実に計算することの大切さを実感しました」


2年間
お世話していただきまして
大変に
ありがとうございました

思い返せば今期も
「やさしく学ぶ浄土真宗」の立ち上げ
熊本震災支援ほか
さまざまなことを
企画なされました

私、正直
「社会のために尽くします」
とかいいながら

1人じゃ
な~んにも行動しない
質でして

そう考えると
尻をたたいてくれる
皆で一緒にやろうと言ってくれる
BRK63(備龍会会員63名)

とても
ありがたく
感じております

 


 

そうこう考えているうちに
新センター(会長)を
選ぶ段に
入ったようです

まず
立候補は…

ナシッ!!

ということで
選ぶのは
先輩方の判断に
委ねられました

(ものものしく別室へ移動される先輩方)

 


「次のセンターは誰かな~? 」

「俺だったらどうしよう?」


様々な思いを抱きつつ
発表を待ちます

そしてっ

ついにっ

(新センター就任に湧き上がるBRKメンバー)

心の中での盛り上がりはこんな感じですが

本当はこっちです

(満場一致で迎える画)

 

新センターは・・・

 

(新会長 河村祐昭氏)

ということに
相成りました

他、執行部の
新メンバーは
後日発表となるようです

 

 

最後に
話は変わりますが
私以前、BRKの
創始者のお一方に
お話伺うことがありまして

Q:「BRKとは?」

A:「横の繋がりよぉ」


一言だけ
いただきました

私てっきり
「何かを成すこと」だとか
思っておりましたので

目が覚めるような
肩の荷が降りるような
思いでありました

年齢や役職
縦の関係も
もちろんありますが

それも
横の線引っ張ったなかの
縦なんだなと

加えて
思うたような
ことでございます

私も
末尾について
頑張らせていただきますので

新たなる2年
また
よろしくお願い致します

 

 

B:びしっとした

R:龍が如しの

K:肩を並べるいい仲間

お粗末さまでしたっ

 

筆者 矢追貴祥

「育む」とは?

六月と言えば梅雨。汗っかきの私には少し嫌な時期の到来です。そんな梅雨ですが広辞苑を引きますと「黴雨(ばいう)」とあります。つまり、湿気の多いこの時期に「黴(カビ)」をもたらす「雨」ということで「黴雨」と呼ばれるようになったそうです。その後、「黴」は同じ音である「梅」という漢字にあてはめられ、一般的には「梅雨」と書くようになったのが一説だそうです。一つ一つの言葉には由来があり調べてみると面白いものです。

数年前、我が家に四十雀(シジュウカラ)が巣を作りました。家の中から外を眺めていると、白と黒の模様をした四十雀がくちばしに草をくわえて、どこかに運んでいるのです。毎日のようにその姿を見るため、不思議に思いながら外に出て様子をうかがっていると、四十雀は洗濯物を干す小屋の柱の中に入っていくのです。これは間違いなく巣をしていると思い、鳥には申し訳ないと思いながら柱の上から写真を撮ってみたのです。すると、なんときれいな卵が7つ!四十雀はこの卵を産むために長い時間をかけて草を運び、巣を作っていたのです。それからというもの私はどうしても柱の中が気になり、定期的に写真を撮って観察をすることにしました。
まずは、親鳥が卵を温めている様子です。親鳥の熱が卵の中に届くことによって、生卵から雛へと成長していきます。あたたかくも力強い親鳥の姿です。ちなみに、卵を温めるのはメスの仕事。オスは餌をとる時間のないメスのために、餌を運んできてくれるそうです。

そして、約2週間後です。ピンク色の物体が写っています。7つある卵の一つから雛が孵っていたのです!しかし、まだ6つは卵の状態…。大丈夫だろうかと心配をしていましたが、後日、写真を撮ると無事に孵っていました。

雛が孵ると親鳥は餌を与えなければなりません。一日中休むことなく餌を探しまわり雛へ与えます。すると、雛はどんどん大きくなり2週間後にはこんな状態に(下の写真)。あきらかに巣のキャパを超えています。ここまでくると巣立っていくのは時間の問題です。

それから数日後のことです。窓ガラスに「ドーン」という衝撃音が…。なんと、四十雀のこどもが窓ガラスにぶつかってきたのです。大丈夫だろうかと心配をしていましたが、数分後、元気に親鳥のもとへと飛び立っていきました。毎日張り込んでいたわけではありませんが、偶然にも巣立ちの瞬間をカメラにおさめることができ観察を締めくくることができました。

四十雀からすると写真を撮られ鬱陶しかったかもしれませんが、親鳥の姿をとおしていのちの営みを感じることができました。実は、題にあげた「育む」とは、この親鳥の姿そのものなのです。広辞苑を引きますと「育む」は「羽包(くく)む」の意、「親鳥がその羽で雛をおおいつつむ」とあります。つまり、愛しい雛を羽で大事に包む様子から「育む」という日本語が生まれたのです。それは100%雛のためにはたらいている姿です。親鳥は雛のために巣を作り、雛のために卵を抱き温め、雛のために餌を探し回り、雛を鳥へと成長させます。この姿こそが「育む」という言葉の由来なのです。「育む」とは、あたたかさのなかに決して見捨てないという親鳥の力強さをあらわす言葉だったのです。

浄土真宗の阿弥陀様は私たちを仏へと育んでくださいます。それは、決して見捨てることはできないという親心であります。「なぜ?頼んでもないのに!」と思われるかもしれませんが、阿弥陀様から見ると私たちも雛と同じように殻の中に閉じこもって生きているからです。

2年ほど前、サマースクール(お寺でする夏の学校)で平和公園に行きました。私は、引率で小学生と一緒に歩いていたのですが、その中の一人が私のことを「おじちゃん」と呼ぶのです。「スクール=学校」でありますから僧侶のことを「先生」と呼ばすようにしているのですが、その子は初めての参加で何て呼んだらいいのか分からなかったのです。しかし、そんなことはどうでもよく、私にとってグサッと突き刺さったのが「おじちゃん」という言葉でした。私は、その当時33歳。まだまだ若いと思っていたけれども、小学生から見ると「歳がいったおじちゃん」だったのです。私自身が見る私の姿と小学生が見る私の姿は大きく異なっているのです。33歳の私がいることは事実ですが、その私をどのように見るかは人それぞれです。つまり、みんな同じ世界を生きているようでも、それぞれが自分の心で作り出した世界を生きているということです。それは、まさに自分の世界(殻)の中に閉じこもって生きている私の姿なのです。

私たちにとって、今見ている世界がすべてであります。その私には「死んだらどうなるの?」という人生最大の問題に答える知恵はありません。つまり、何も見通すことができないまま死んでいかなければならないのが私の生涯なのです。その私に、阿弥陀様は私の知恵では及ばない世界(浄土)があることを知らせ、その世界へ迎えとり仏にしてくださるのです。親鳥の熱が卵の中に届いていたのと同じように、私という殻を突き破ってそのことを知らせ仏へと育んでくださるのです。それは、私を抱きとり決して見捨てることのないおはたらきであります。

筆者 川上順之

縁側よりの使者

僧侶はお参りの時、何故「玄関」ではなく「縁側」から上がるか、ご存知ですか?

そうじゃない所もあるでしょうが、わたしの在所やその近隣では、お参りはほぼ縁側から上がらせて頂きます。

これは
世間の御用(家の方への御用)は玄関から。
仏様の御用はお仏間に近い縁側から。
という心のようです。

今日はそんなお参り先の縁側に纏わるお話です。

 

その日はお昼まで4軒のお参り。
お話が過ぎて30分遅れで到着した2軒目のお宅。
縁側の戸は開けてあり、お仏壇にはおひかりが灯してあります。

「ごめんください、遅くなりました」

声を掛け、縁側より上がり、先ずお仏壇へ。

「なんまんだぶなんまんだぶ…」

振り返ったところに

襖を開けご主人が出て来られました。

「待ちよったよ」

「いや〜すみません。遅くなりました。」

「ええよ、ゆっくりしんさい。」

「いやいや、すぐに」

衣を着替えてお仏壇へ。

手を合わせたところで、気になる物音。
仏壇の上「無量寿」と書かれた横長の額の裏で何やら「カサカサ、バタバタバタバタ」。

振り返ってご主人とアイコンタクト。

「なんかおるね」「おりますね」

 

 

立ち上がり額縁の裏を覗き込む。

そこには一羽の小鳥!

「しかしまた何でこんなとこに?」

「住職さんがなかなか来てんないけぇ代わりにお参りしてくれとったんよ。」

 

一本取られました。

 

ほんとは縁側から入り込んで出れなくなり、羽休めをしていたところ人の声、慌てて「バタバタ」といったところでしょう。

「わ〜何んかね?スズメじゃなさそうなね」
協議の結果ヒヨス(ヒヨドリ)ということになりました。

ご主人は奥から持って来た椅子に登り、ヒヨスを優しく手の中に収めて縁側からそっと逃がしてくださいました。

 

よかったよかった。

 

さぁ、お勤めはじめましょう。

…ところが

飛び立ったはずのヒヨスが再びお縁に戻って来たのです。

何の御用か、お礼を言いにでも来たのか、縁側をチュンチュン歩いたり、仏間を飛び回ったりと今度はやりたい放題です。

事態はさらに思わぬ方向へ。

襖の影に光る目2つ、

身を低く構えた猫がこちらの様子を窺っています。

「嫌な予感」

と思ったその時、素早い身のこなしで、ヒヨス目掛け矢の様に飛び込んで来ました。

両者の中継地点にいた私、「ウワッ!」とおもわず声を上げ、過剰なまでに身をかわします。

猫は床の間の花瓶を「ガシャーン!となぎ倒し、ヒヨスを見事その口に咥えてしまったのです。

(うわ〜えらいもんをみてしもたぁ。)

心の中で2、3度呟いたでしょうか。

 

しばらくして猫は口からヒヨスを離し、毛糸の玉とジャレるあの塩梅で小突きはじめます。

「こりゃお前は!かわいそうな事をしちゃるな!」

ご主人にそう言われ、猫は逃げる様に何処かへ行ってしまいました。

一方、ご主人の手に優しく救い出されたヒヨスはというと、気絶していたのか、またはそのフリだったのか。

手の中で揺すられ、しばらくすると正気をとりもどしました。

「よかった生きとった。」

「よかったよかった。」

手の中のヒヨスに向け

「ええか、もう戻って来(く)なよ〜」

そぉ言って、ふたたび縁側から大空へと放たれました。

今度は縁側の戸はピシャリと閉められました。

その日その後のお参りはどうしようもなく遅れて、お詫びと合わせ「実はこんなことが」と付け加えて回らせていただきました。

 

しかし、改めて動物の本能とは凄いものです。
猫はお腹を空かしていた訳ではありません。

鳥が畳の上を歩いている。

この状況にすぐさま反応し飛びかかっただけです。

本能は習わなくとも、ちゃんと身に備わっているもの。ということでしょうか。

ふと人間の場合はどうなんだろう。と思います。

さすがに口で獲物を捕らえる事はないかもしれません。

しかしこの口もカッとなれば瞬時に人を攻撃しますし、もっと言えば手も出します。
それ以上のことだってやり兼ねません。
厄介なことにその言い訳や正当化もします。
私たちにも習わなくても、練習しなくてもちゃんと身に備えているものがあります。

難儀なものです。

 

仏さまに御礼を申しながら
仏さまとはほど遠い私。
法の中で私に出遇う。
教えて頂いたお参り先のご縁でした。

小鳥と猫は仏さまのおつかい。

筆者 藤田 徹信

 

“お聴聞(ちょうもん)のすすめ”~阿弥陀様に彩られた日常生活~

この世界には2種類の人間しかいません。それは阿弥陀様という仏様に関心がある方とない方です。そして多くの方が阿弥陀様に関心がありません。なぜかというと、自らの日常生活と接点がないからです。

阿弥陀様という仏様のお話を聞くことを、お聴聞(ちょうもん)といいます。浄土真宗ではこのお聴聞をとても大切に致します。ですので僧侶である私はお聴聞をすすめます。けれども以前あるご門徒の方から「阿弥陀様の話は日常生活とあまりにもかけ離れた話だから、阿弥陀様の話よりも防災の話や健康の話のようなもっと日常の生活に役立つ話を聞きたい。」と言われた事があります。また別の方から「世間的に有名な方をお招きして、色々お話を聞かせてもらいたい」と言われた事もあります。やはり皆さん仏様のお話よりも、そういったお話の方が関心がおありなのかもしれません。僧侶としては寂しい事ですが(苦笑)

確かに阿弥陀様のお話は一見日常生活とはかけ離れた話のように聞こえるかもしれません。けれども不思議な事に最初のうちはよく分からなくても阿弥陀様のお話を聞いていると、次第に私の日常生活に阿弥陀様が現れ出てくださるようになるのです。別の表現をするならば私の日常生活が「阿弥陀様に彩られた日常生活」へと変化していくのです。

お経には、「阿弥陀様という仏様は私のためにとても綺麗な光り輝く世界であるお浄土という世界を建立して下さった」と説かれてあります。最初のうちはそんなことを聞いても「だからどうした」「ばかじゃなかろうか」ぐらいにしか思いません。けれどもその事をずっと聞いているとその事が私の生活の中にひょこっと顔を出してくるのです。

お寺の境内で草むしりをしていた時のことです。ただただ、「しんどいなぁ」「めんどくさいなぁ」と思いながら草むしりをしていたのですが、そのときふと「阿弥陀様もこうやってしんどい思いをしながら、私のために綺麗な光り輝くお浄土を建立してくださったのかなぁ」と思えてきて、なんだか有難くなったことがあります。本当に不思議なことです。

お寺の境内を掃除する事と、お浄土を建立する事では全くスケールの違う話であります。しかしながら自分が掃除をすることを通して、「私が今感じているしんどさとは比べ物にならないぐらいのしんどい思いをして、私のためにとても綺麗で光り輝く世界であるお浄土を建立してくださったのか」と思えてくると、掃除をする事はしんどいことではあるけれども、そのしんどさの中に有難さを感じるのです。

また、お経には「阿弥陀様は元々ある国の王様で在られたけれども、私のために王様の地位や名声や権力を全て捨てて出家なさってご修行されて仏様になられた」と説かれてあります。最初のうちはそんなことを聞いても「だからどうした」「ばかじゃなかろうか」ぐらいにしか思いません。けれどもその事をずっと聞いているとふとした時に私の生活の中にその事がひょこっと顔を出してくるのです。

つい先日サウジアラビアのサルマン国王様が日本にお越しになられ、大きなニュースとなりました。報道によればサルマン国王様は1千人を超える王族の方や企業幹部の方を伴い来日されたようです。そのため日本へは40機の飛行機で来られ、また国内移動用に高級車が400台以上用意され、さらには東京の高級ホテルを1200室以上抑えられたそうです。さすが王様です。スケールが違いすぎます(笑)私もニュースを観ていたら、たくさんの報道陣が待ち構える中、王様専用機で来日された国王様を皇太子さまがお出迎えに上がられているシーンが流れていました。

そんなシーンを観ながら「王様ってすげーな!」と率直に感じましたが、ふと「阿弥陀様も元々王様だったって事は、こんな感じだったのか。でも私一人のためにこれを全部捨てて出家なさったのか!!」と思えてきて、なんとももったいない思いがしたのです。本当に不思議なことです。

サルマン国王様は経済などの話し合いのために来日されたのだと思いますが、私には「あなたのために阿弥陀様はこれだけの王様の権力を投げ捨てたのだぞ。王様としての地位や権力や財力よりもなによりもあなた一人が大切だと仰る仏様なのだぞ」という事をテレビを通して伝えるために来日してくださったように思え、なんとも有難く思えたのでありました。

本当に不思議なことでありますが、初めは私の日常生活とはかけ離れ何の意味もないと思っていたはずの阿弥陀様が、お聴聞をしているといつの間にか私の日常生活のいたるところにあらわれでてくださって私の日常生活は「阿弥陀様に彩られた日常生活」に変わっていくのです。この「阿弥陀様に彩られた日常生活」は「阿弥陀様をいたるところで喜ぶことができる日常生活」なのです。そしてそのような生活を送ることができる人生を歩めるのは誠に有難いことであります。

誰しも生きているといろんなご縁に出会っていかなければなりません。辛い事にも、悲しい事にもたくさん出会っていかなければならないかもしれません。けれどもどのようなご縁であってもその事を通して仏様を仰いでいくことができるならば、全て尊いご縁だったなぁと乗り越えていくことができるのかもしれません。

防災のお話や、健康のお話、また著名な方のサクセスストーリーを聞く事も有意義な事であり大切な事だと思います。けれどもお聴聞をすることもなかなかいいもんです。一つ一つの事柄が変わって見えてきます。世界が変わります。この世界は私のためにご苦労して下さった仏様のお慈悲で満ち溢れています。すごいです。やばいです。まじで。

お聴聞おすすめです。

 

筆者 枝廣 大智

第1回「やさしく学ぶ浄土真宗」レポート

〝浄土真宗のみ教えを分かりやすく学べる場がもっともっと増えてほしい〟

そんな思いから立ち上がった企画、「やさしく学ぶ浄土真宗」の第1回が3月2日に福山市市民参画センターで開催されました。

「参加者があるんだろうか?」

そんな主催側の心配も他所に、予想を大きく上回る参加人数で会場は満席となりました。

講題は「生死(の迷い)を超える」です。

玉木先生はまずお釈迦様のご誕生から味わっていかれました。
お釈迦様は誕生後すぐに7歩歩まられたとお聞かせいただいておりますが、なぜ6歩でなく8歩でもなく7歩だったのか?
そこに「六道輪廻」という迷いの状態をお示しになられます。

①地獄・・・苦しみのきわまった世界。
②餓鬼・・・飢餓に悩まされる世界。
③畜生・・・人に養われて生きているもの。
④修羅・・・絶えず対立し闘争するもの。
⑤人
⑥天・・・人界より素晴らしい世界で、衆生が受ける最高の生存。

仏教ではこれらすべては迷いの悪い状態だと考えます。玉木先生はこれらの世界を私たちの日常での出来事に重ねて例えていかれ、

「人として生かさせていただいている私たちですが、同時に六道の状態にいるともいえるでしょう」

とお示しくださいました。お釈迦様の7歩の意味は、その六道を超えていく7の道と考えていく、仏教は六道を超える教えなんだということを最初に聞かせていただきました。

お話しの中にはユーモアを取り入れられて、参加者は興味をそそられます。

例えば先生がご用意くださった資料の中で、「腹」という字が横に寝てます。

玉木先生「このように日頃から心がけてます!」

「なんだろう?」と参加者が顔を見合わせる中、

玉木先生腹を立てず!ということです」

とご解説をいただくと会場の参加者も思わずニンマリ♪
しかし腹が立ってしまうのが私たちで、それも煩悩という苦しみの姿なんですね。

開催が3月2日ということもあり、ひな祭りのイラストを付けられているところも和みます。

他にも掲示伝道におススメの言葉をご紹介してくださったり、終始興味深く参加者を飽きさせない色々な工夫が施されていました。

その後も、六道という悪い状態・迷いの中にある私たちの姿、そしてその私を、親が子を心配するように、心配で心配で見ておられる阿弥陀様のお心を丁寧に丁寧にお話しくださいました。

先生には本当にやさしく優しく易しく語っていただきました。次の講義が待ち遠しいです♪

次回、第2回は5月25日(木)となっております。
どうぞ皆さま有縁の方々お誘い合わせのうえ、共々に親鸞聖人の浄土真宗について、やさしく学ばせていただきましょう!

脳のクセがすごい!

最近、脳科学者である池谷裕二氏の著作『自分では気づかない、ココロの盲点【完全版】~本当の自分を知る練習問題80』を読みました。

私と同郷(岡山県井原市芳井町)のお笑いコンビ千鳥のノブのツッコミに「クセがすごい!」というのがありますが、この本は私たちが知らず知らずのうちに持っている脳のクセを、クイズ形式で解説したものです。この脳のクセは「認知バイアス」と呼ばれ、無意識のうちに勘違いや、判断ミスを引き起こします。その本には私たちが日ごろ気づかない80もの脳のクセが紹介されていました。

私が特にこのクセすごいな、深いなと思ったのは、こういう問題でした。


ネズミを飼育する時に通常は餌を皿に入れ好きな時に食べられる状態にしています。

しかし、レバーを押すと餌が出てくる仕掛けに変えても、ネズミはすぐに学習して上手にレバーを押して、餌を食べるようになるそうです。

そこで、一つは皿に入った餌、もう一つはレバーを押して出る餌、どちらも同じ餌で用意します。さて、どちらの餌を選ぶネズミが多いでしょうか?

①    皿に入った餌

②    レバーを押して出る餌


(娘に実験の図を描いてもらいました)


 

私は当然①かと思っていましたが、なんと答えは②「レバーを押して出る餌」だったのです。

不思議なことに、皿から餌を自由に食べられるにも関わらず、わざわざレバーを押すのです。

しかもこれは、ネズミだけではないのです。イヌ・サル・トリ・サカナに至るまで動物界にほぼ共通して見られる現象らしいです。なんと人間もだそうです。同様の実験を、就学前の幼児に対して行うとほぼ100%の確率でレバーを押し、大学生でも5割は押すというのです!目の前にあるにも関わらず!

これは何を意味しているのかというと、この結果は「労働の価値」に結びつくというのです。つまり、苦労せずに得られる皿の餌よりも、労働をして得る餌のほうが価値が高いということをあらわすのです。

始めから得られた贅沢三昧、ゆうゆう自適な生活より、コツコツと地道に働いて得ていく小さな幸せの積み重ねこそ、充実した幸せと感じるといえるのでしょう。

確かに、単純にお金が降ってきて大金持ちになって働かずにすむ幸せを私たちは望みがちですが、本当はそれはなかなか納得いかないのかもしれません。むしろ、そこに「今まで頑張ってきた行いの結果だ」とか、「日ごろの心根が良かったからな」など、後付けででも、それが獲られた原因を自分の中に作り出して、自分で納得していくのが私たちの有様なのかもしれません。

「働かざる者食うべからず」という諺がありますが、これは人間を含めた動物自体が、本来その脳に備えた根深い悩のクセだったようです。

これはネズミをばかにすることはできませんね。私もそうです。ご褒美という成果を求めること自体に幸せを感じていて、日々「努力をすれば、手に入る」と期待せずにはおられないところがあるのでしょう。

逆に「ネズミの目の前にある皿に入った餌」のように、今現在自分にすでに届けられてあるもの、向けられているもの、与えられているものに目がいきにくいということもあるのかもしれません。

あなたはどんな脳のクセを持っていますか?皆さん、自分が行動していると思っていたら、実は脳のクセが私をそうさせているのかもしれませんよ。

仏さまのお話を聞くということは、本当の自分に出会うこと、と聞かせていただいたことがあります。備龍会では「やさしく学ぶ浄土真宗」という仏教入門講座を開いています。

自分では知ることができない自分のまことの姿を、脳のクセも含め私の丸ごとを見通された仏さまのお心に聞いていくことが大切なのです。皆さんもご一緒に聞いていきませんか?


(おまけ)
なんと餌の実験で、これまで調べられた中で唯一、皿の餌をそのまま食べた動物がいるそうです。
それは飼いネコだそうです!

飼いネコのみ、徹底的な現実主義なのか、レバー押しに精を出すことはありません。

ただひたすらに餌を食す。格好良いような。単に食いしんぼうなのでは。それはそれで問題のような…。

筆者 佐藤 知水

 

『御絵伝解説~親鸞聖人九十年の御生涯』

先般2月13日に備龍会主催の仏教教養講座が開かれました。

今年も昨年に引き続き、大阪の宮部誓雅先生にお越しいただき、親鸞聖人九十年の御生涯が描かれた『御絵伝』を、プロジェクターを用いて分かりやすく解説していただきました。

昨年は四幅ある御絵伝のうち第一幅のみの講座でしたが、今回残りの三幅の中から特に重要な場面をピックアップして、最後まで解説していただきました。

いつもは一回の研修会につき一幅でお話されることが多いようなので、相当無茶な依頼だったと思います。限りある時間の中で丁寧にまとめてくださった宮部先生には本当に感謝です。
お蔭で御絵伝の全体像を把握させていただく、大変よい機縁となりました。

このように実際に御絵伝の場面を大きくしての解説、本当に見やすく分かりやすいです。

スライドの良さは言葉を聞きながら目でも多くの情報を得ることができることです。濃密な時間で、会場にいる皆がぐっと場面に集中している感じが伝わってきました。
スライドを用いての解説の後には、御絵伝の場面に先生が味合われるみ教えを御法話してくださる時間もありました。
御絵伝も日々研究が進み新しい発見などもあるそうです。
親鸞聖人が御流罪になられた背景や、山伏弁円さんとの出会いの意味など、引き込まれるお話をたくさんしていただきました。

今回宮部先生のお話を聞かせていただき、今後『御絵伝』を「自分たちでももっと学ばせていただきたい」という思いが強くなりました。

また、お掛け軸として皆で見て敬えるようにした『御絵伝』は、当時としては画期的な伝道方法であったのでしょう。

私たち青年僧侶が現代社会において親鸞聖人のみ教えを広く伝えていくためには、このように新たな視聴覚伝道について研究していく必要もあると思います。
今回の研修は私たちにとって新たな取り組みの可能性を考えさせられる大変有意義な時間となりました。

浄青僧全国大会 in 築地本願寺。

備龍会が加盟する「浄土真宗青年僧侶連絡協議会」の第25回全国大会が東京築地本願寺で開催されました。

大谷光淳ご門主様ご臨席のもと、開会式が始まり、「宗祖讃仰作法(音楽法要)」が勤まりました。

築地本願寺には立派なパイプオルガンが常設されており、多彩な音色に雅楽と声明が調和して、美しいハーモニーを奏でます。

大会のテーマは「浄土真宗だからできること~僕らの時寺問題2017~」

研修は釈 徹宗先生をコーディネーターにパネルディスカッション形式で行われ、先ず「夜回り先生」として有名な水谷 修先生より問題提起がなされました。

現代社会において多くの悩みを抱える若者たちと深く関わり続けて来られた水谷先生から発せられたのは、数限りない若者たちの苦悩の現状、湧きおこる問題、そこに光を射す事の出来る仏教(お寺)の可能性。それらの提起に、満井秀城・紫藤常昭・脇谷暁融先生がそれぞれ専門とする立場からディスカッションされました。

会場内には、『ダキシメルオモイ』展が併催され、小林憲明さんの作品が展示されました。

麻布に油彩で描かれた作品は、適度に透明感があり、空間に自然と溶け込んでいくようです。

東北の震災以降、福島の親子を中心に描き続けている小林さんは、子供を守りたい、安心して暮らしたい、そんなごくあたりまえがあたりまえでなくなった世の中で

〝ダキシメルオモイ〟

子を抱きしめる親の姿にオモイを込めて描き繋いでいきたいとお話しくださいました。
夜は懇親会にて親睦を深め、それぞれの地で頑張る同じ青年僧侶の姿に元気をもらいました。
有意義な研修が、大きな糧となるように精進してまいります。
東京教区青年僧侶協議会のみなさま、準備等々お疲れ様でした。本当に有難うございました。


おまけ

せっかくの築地ということで、旅のだいご味、会員それぞれ食べ歩きしてましたので紹介してみます。
築地本願寺へお参りの際には、ぜひお立ち寄りの参考に。

「ラーメン井上」
ここは外せないと多くの会員が立ち寄りました。あっさりで朝からでも食べられます。

「きつねやのホルモン丼」
築地本願寺お朝事の帰りに朝7時から食べました。さすがに胃にもたれましたがまことに美味です。

「月島もんじゃ」
研修終わってみんなで食べに行きました。備後ではあまり食べる機会がないので新鮮です。べビスターラーメントッピングというのも斬新です。
その他にも、東京の皆さまにたくさん紹介していただきました。次回来たときにはぜひ立ち寄ってみたいと思います。

浄土真宗本願寺派 備後教区 青年僧侶の会=備龍会のウェブサイトです。