備後教堂を出て、福山城を背に陸橋沿いを歩くと、備後教堂駐車場があります。その途中にある公園の隣に大きなお墓があります。このお墓は、初代福山城城主、水野勝成のお墓です。
水野勝成という人物。福山市在住の方でも、よそから来て福山を発展させた、じみ~な殿様?という感覚でしょう。実は徳川家康の22歳年下のいとこにして、2代将軍徳川秀忠とは乳母兄弟。全国各地の合戦に出陣し次々と手柄を立てるものの、ある時は父の家臣を斬ってしまい追放、そしてまた次の戦場で手柄を立てては、もめ事を起こして逃亡…と、血の気の多い逸話と戦働きから、「鬼日向(おにひゅうが)」・「倫魁不羈(りんかいふき)」(あまりにも凄すぎて誰も縛ることが出来ない)と呼ばれ、コアな歴史ファンからは戦国最強武将といわれています。それでいて晩年は、中国地方唯一の譜代大名福山藩主として、10万石でありながら、実質30万石と言われる豊かな土地へと発展させていった治世の名君でもあります。今回はその生涯を紹介していこうと思います。
※歴史の解釈は諸説あるのでご了承ください。
① 16歳にして討ち取った数、〇〇人!?
勝成は永禄7年(1564年)、三河国で水野忠重の長男として生まれ、母親は、なんと本願寺11代門主顕如上人の妹君、妙舜尼さまだそうです。
初陣は1581年16歳の時。織田家家臣として武田家との高天神城合戦。同年、第二次高天神城合戦の出陣では敵を討ち取る働きをしています。その数なんと15人!これには第六天魔王こと信長様もさぞご満悦だったのでしょう。鬼人のごとき働きを見せた16歳の少年に感状(領地安堵の確約や戦働きを褒められたお手紙)を贈っておられます。その翌年、本能寺の変が起こります。
② キレて父親の重臣を手にかける!?
本能寺の変の後は徳川家康に帰参。北条家との黒駒合戦では一番槍。小牧・長久手では秀吉軍を相手に、兜をかぶらず出陣。父に怒鳴られながらも一番槍と首級を挙げる手柄を立てます。
そんな勝成ですが、父の忠重とはうまくいかなかったようです。父親の家臣が勝成の素行を報告したことでその家臣を斬殺。追放と奉公構(他家への仕官禁止)まで出されてしまいます。勝成21歳。若い頃に「うつけもの」と呼ばれた信長のようですが、それを上回る、まさに倫魁不羈という人物ですね。
③ 自分を求めて諸国放浪の旅と姫谷焼職人という道
奉公構を出されたものの、水野勝成の武勇は全国に轟いていました。まず秀吉の配下となり、四国征伐では仙石秀久、九州では国人一揆鎮圧などで、佐々成正や黒田官兵衛、立花宗茂、小西行長、加藤清正、備中でも三村家に仕え、その都度手柄をたてます。しかし、すぐに出奔してしまうのです。その放浪の旅は家康に許されるまで15年にも及びます。
西日本各地には出奔動機や出奔後のさまざまな伝説が残っています。姫谷焼職人として姫谷焼を焼いていたとも、虚無僧になっていたとも。また主君の配下を斬ったとも。
④ 実は勝成、謀略家でもあります
勝成36歳の時、秀吉が死亡すると家康に再接近。家康のとりなしにより15年ぶりに父と和解します。と、その直後の翌年。父忠重が石田三成の配下、加賀井重望によって暗殺され、急遽水野家を継ぐこととなったのです。
復讐に燃える勝成、関ケ原の合戦。徳川陣の真後ろにある大垣城を攻める大役目を与えられます。この大垣城、二の丸・三の丸には九州武将が多く守備しており、勝成はその武将を次々と寝返らせ、大垣城を数日のうちに落城させます。同時に父を暗殺した加賀井重望の息子、弥八郎を討ち、かたき討ちも果たしたといわれています。
⑤ 勝成52歳大坂の陣。戦を知る武将として大和方面軍先鋒大将を任される!
1615年大坂夏の陣、すでに50歳を超える勝成ですが、戦国最後の合戦にも息子と参戦し、夏の陣では大和口方面の先鋒大将を任されます。勝成のことをよく知る家康は、
「大将は絶対に前線へ出てはならない。絶対だぞ」
という命令をしたにもかかわらず、それを無視して後藤又兵衛軍に突撃。大坂の陣道明寺合戦が始まります。勝成は自ら一番槍をあげ、後藤又兵衛を撃破、第2陣の橙武者薄田兼相を討ち取り、真田幸村など大阪方主力軍と対峙します。ここで決戦だと勝成が意気込んでいたところ、伊達政宗に3度諫められて兵を撤収させました。翌日の最終決戦では、真田幸村に襲われた徳川本陣へいち早く駆け付け、真田軍を壊滅。続いて明石全登を討ち取り、勝成自身も2つの首級を挙げています。
⑥ 戦国最後の大戦を大将として見届け(自分も槍をふるう)、福山藩主として名君主となる
1619年、ついに勝成は備後福山藩主となります。転封に際し、神辺城から新たに福山城を築城。武家諸法度で築城が禁じられた中、唯一築城が許された最後のお城であり、600m²の土地に、京都伏見城の伏見櫓など20を超える櫓、5層6階を超える、10万石のお城としては破格のサイズであります。
春日池や服部大池を建造して、瀬戸内海や芦田川などの水道網、城下町を整備し、藩の産業を興して福山市の礎を築いていきました。
⑦ 1638年(大坂の陣より23年後)水野勝成74歳、子や孫に囲まれて…
天草の乱鎮圧に向かいます。
幕府から本州で唯一出陣要請を受け、長男俊勝、孫の俊貞とともに兵を率い、3代将軍徳川家光の命で、老中の相談役という、実質総大将と同格扱いで請われます。島原に到着すると、同日さっそく軍議を開始。その軍議で100日も兵糧攻めをしていたことを知り、今こそ好機とすぐに総攻撃をするよう一喝し攻撃を開始します。さすがに勝成は最後列でしたが、息子の俊勝は本丸一番乗りを果たします。この天草の乱鎮圧後、ついに勝成は隠居となりました。
⑧ 人間50年
信長49歳、秀吉61歳、家康でも75歳。勝成は88歳まで長生きしています。しかも87歳に37mの距離で鉄砲を撃って当てた的が残っています 。「諸人驚目也」と書いてあります。もし水野勝成が、多くの戦の中、一歩でも間違えて討ち取られていたら今の備後地方は大きく変わっていたでしょう。それにしても、城主として家臣にとても慕われ、領民にも愛されていた福山初代藩主が、戦国最強と呼ばれる武将とは思いもしませんでした。
時には歴史に思いを馳せるのもいいものですね。
参考
歴史秘話ヒストリア「戦国ラストサムライ 絶対曲げない水野勝成」
国立国会図書館データベース「史籍集覧、第十六集 水野日向守勝成覚書」
Wikipedia
執筆者 椙俊道