僧侶はお参りの時、何故「玄関」ではなく「縁側」から上がるか、ご存知ですか?
そうじゃない所もあるでしょうが、わたしの在所やその近隣では、お参りはほぼ縁側から上がらせて頂きます。
これは
世間の御用(家の方への御用)は玄関から。
仏様の御用はお仏間に近い縁側から。
という心のようです。
今日はそんなお参り先の縁側に纏わるお話です。
その日はお昼まで4軒のお参り。
お話が過ぎて30分遅れで到着した2軒目のお宅。
縁側の戸は開けてあり、お仏壇にはおひかりが灯してあります。
「ごめんください、遅くなりました」
声を掛け、縁側より上がり、先ずお仏壇へ。
「なんまんだぶなんまんだぶ…」
振り返ったところに
襖を開けご主人が出て来られました。
「待ちよったよ」
「いや〜すみません。遅くなりました。」
「ええよ、ゆっくりしんさい。」
「いやいや、すぐに」
衣を着替えてお仏壇へ。
手を合わせたところで、気になる物音。
仏壇の上「無量寿」と書かれた横長の額の裏で何やら「カサカサ、バタバタバタバタ」。
振り返ってご主人とアイコンタクト。
「なんかおるね」「おりますね」
立ち上がり額縁の裏を覗き込む。
そこには一羽の小鳥!
「しかしまた何でこんなとこに?」
「住職さんがなかなか来てんないけぇ代わりにお参りしてくれとったんよ。」
一本取られました。
ほんとは縁側から入り込んで出れなくなり、羽休めをしていたところ人の声、慌てて「バタバタ」といったところでしょう。
「わ〜何んかね?スズメじゃなさそうなね」
協議の結果ヒヨス(ヒヨドリ)ということになりました。
ご主人は奥から持って来た椅子に登り、ヒヨスを優しく手の中に収めて縁側からそっと逃がしてくださいました。
よかったよかった。
さぁ、お勤めはじめましょう。
…ところが
飛び立ったはずのヒヨスが再びお縁に戻って来たのです。
何の御用か、お礼を言いにでも来たのか、縁側をチュンチュン歩いたり、仏間を飛び回ったりと今度はやりたい放題です。
事態はさらに思わぬ方向へ。
襖の影に光る目2つ、
身を低く構えた猫がこちらの様子を窺っています。
「嫌な予感」
と思ったその時、素早い身のこなしで、ヒヨス目掛け矢の様に飛び込んで来ました。
両者の中継地点にいた私、「ウワッ!」とおもわず声を上げ、過剰なまでに身をかわします。
猫は床の間の花瓶を「ガシャーン!となぎ倒し、ヒヨスを見事その口に咥えてしまったのです。
(うわ〜えらいもんをみてしもたぁ。)
心の中で2、3度呟いたでしょうか。
しばらくして猫は口からヒヨスを離し、毛糸の玉とジャレるあの塩梅で小突きはじめます。
「こりゃお前は!かわいそうな事をしちゃるな!」
ご主人にそう言われ、猫は逃げる様に何処かへ行ってしまいました。
一方、ご主人の手に優しく救い出されたヒヨスはというと、気絶していたのか、またはそのフリだったのか。
手の中で揺すられ、しばらくすると正気をとりもどしました。
「よかった生きとった。」
「よかったよかった。」
手の中のヒヨスに向け
「ええか、もう戻って来(く)なよ〜」
そぉ言って、ふたたび縁側から大空へと放たれました。
今度は縁側の戸はピシャリと閉められました。
その日その後のお参りはどうしようもなく遅れて、お詫びと合わせ「実はこんなことが」と付け加えて回らせていただきました。
しかし、改めて動物の本能とは凄いものです。
猫はお腹を空かしていた訳ではありません。
鳥が畳の上を歩いている。
この状況にすぐさま反応し飛びかかっただけです。
本能は習わなくとも、ちゃんと身に備わっているもの。ということでしょうか。
ふと人間の場合はどうなんだろう。と思います。
さすがに口で獲物を捕らえる事はないかもしれません。
しかしこの口もカッとなれば瞬時に人を攻撃しますし、もっと言えば手も出します。
それ以上のことだってやり兼ねません。
厄介なことにその言い訳や正当化もします。
私たちにも習わなくても、練習しなくてもちゃんと身に備えているものがあります。
難儀なものです。
仏さまに御礼を申しながら
仏さまとはほど遠い私。
法の中で私に出遇う。
教えて頂いたお参り先のご縁でした。
小鳥と猫は仏さまのおつかい。
筆者 藤田 徹信