「育む」とは?

六月と言えば梅雨。汗っかきの私には少し嫌な時期の到来です。そんな梅雨ですが広辞苑を引きますと「黴雨(ばいう)」とあります。つまり、湿気の多いこの時期に「黴(カビ)」をもたらす「雨」ということで「黴雨」と呼ばれるようになったそうです。その後、「黴」は同じ音である「梅」という漢字にあてはめられ、一般的には「梅雨」と書くようになったのが一説だそうです。一つ一つの言葉には由来があり調べてみると面白いものです。

数年前、我が家に四十雀(シジュウカラ)が巣を作りました。家の中から外を眺めていると、白と黒の模様をした四十雀がくちばしに草をくわえて、どこかに運んでいるのです。毎日のようにその姿を見るため、不思議に思いながら外に出て様子をうかがっていると、四十雀は洗濯物を干す小屋の柱の中に入っていくのです。これは間違いなく巣をしていると思い、鳥には申し訳ないと思いながら柱の上から写真を撮ってみたのです。すると、なんときれいな卵が7つ!四十雀はこの卵を産むために長い時間をかけて草を運び、巣を作っていたのです。それからというもの私はどうしても柱の中が気になり、定期的に写真を撮って観察をすることにしました。
まずは、親鳥が卵を温めている様子です。親鳥の熱が卵の中に届くことによって、生卵から雛へと成長していきます。あたたかくも力強い親鳥の姿です。ちなみに、卵を温めるのはメスの仕事。オスは餌をとる時間のないメスのために、餌を運んできてくれるそうです。

そして、約2週間後です。ピンク色の物体が写っています。7つある卵の一つから雛が孵っていたのです!しかし、まだ6つは卵の状態…。大丈夫だろうかと心配をしていましたが、後日、写真を撮ると無事に孵っていました。

雛が孵ると親鳥は餌を与えなければなりません。一日中休むことなく餌を探しまわり雛へ与えます。すると、雛はどんどん大きくなり2週間後にはこんな状態に(下の写真)。あきらかに巣のキャパを超えています。ここまでくると巣立っていくのは時間の問題です。

それから数日後のことです。窓ガラスに「ドーン」という衝撃音が…。なんと、四十雀のこどもが窓ガラスにぶつかってきたのです。大丈夫だろうかと心配をしていましたが、数分後、元気に親鳥のもとへと飛び立っていきました。毎日張り込んでいたわけではありませんが、偶然にも巣立ちの瞬間をカメラにおさめることができ観察を締めくくることができました。

四十雀からすると写真を撮られ鬱陶しかったかもしれませんが、親鳥の姿をとおしていのちの営みを感じることができました。実は、題にあげた「育む」とは、この親鳥の姿そのものなのです。広辞苑を引きますと「育む」は「羽包(くく)む」の意、「親鳥がその羽で雛をおおいつつむ」とあります。つまり、愛しい雛を羽で大事に包む様子から「育む」という日本語が生まれたのです。それは100%雛のためにはたらいている姿です。親鳥は雛のために巣を作り、雛のために卵を抱き温め、雛のために餌を探し回り、雛を鳥へと成長させます。この姿こそが「育む」という言葉の由来なのです。「育む」とは、あたたかさのなかに決して見捨てないという親鳥の力強さをあらわす言葉だったのです。

浄土真宗の阿弥陀様は私たちを仏へと育んでくださいます。それは、決して見捨てることはできないという親心であります。「なぜ?頼んでもないのに!」と思われるかもしれませんが、阿弥陀様から見ると私たちも雛と同じように殻の中に閉じこもって生きているからです。

2年ほど前、サマースクール(お寺でする夏の学校)で平和公園に行きました。私は、引率で小学生と一緒に歩いていたのですが、その中の一人が私のことを「おじちゃん」と呼ぶのです。「スクール=学校」でありますから僧侶のことを「先生」と呼ばすようにしているのですが、その子は初めての参加で何て呼んだらいいのか分からなかったのです。しかし、そんなことはどうでもよく、私にとってグサッと突き刺さったのが「おじちゃん」という言葉でした。私は、その当時33歳。まだまだ若いと思っていたけれども、小学生から見ると「歳がいったおじちゃん」だったのです。私自身が見る私の姿と小学生が見る私の姿は大きく異なっているのです。33歳の私がいることは事実ですが、その私をどのように見るかは人それぞれです。つまり、みんな同じ世界を生きているようでも、それぞれが自分の心で作り出した世界を生きているということです。それは、まさに自分の世界(殻)の中に閉じこもって生きている私の姿なのです。

私たちにとって、今見ている世界がすべてであります。その私には「死んだらどうなるの?」という人生最大の問題に答える知恵はありません。つまり、何も見通すことができないまま死んでいかなければならないのが私の生涯なのです。その私に、阿弥陀様は私の知恵では及ばない世界(浄土)があることを知らせ、その世界へ迎えとり仏にしてくださるのです。親鳥の熱が卵の中に届いていたのと同じように、私という殻を突き破ってそのことを知らせ仏へと育んでくださるのです。それは、私を抱きとり決して見捨てることのないおはたらきであります。

筆者 川上順之