「 ヘイ、ジャパニ! ヘイ! ジャパニー! 」
インド滞在中に何度も聞いたこの言葉。観光地を歩くと決まってこの言葉で呼びかけられます。その後に続くセールスの開始を告げる言葉でもありますが、この独特な呼びかけも今となれば懐かしく思い出されます。
念願叶い今年2月に釈尊の足跡を訪ねインドを旅しました。「旅」とかっこよく書いてみましたが、実際は限られた時間の中で広いインド(主に北インド)に点在する仏跡を目一杯巡りましたので、目的地を順々に移動するスタンプラリーをしているような行程となり、1日の大半が移動に費やされ、人々の暮らしや文化に触れる時間はわずかでした。
そんな旅ではありましたが、私なりにインドで感じたことの一端を記させていただきます。
「インドに行くと人生観が変わる。」
よく聞く言葉です。私も学生時分から何度となく聞いてきました。しかし現在のインドはGDP世界7位(2018年)、経済成長率は7%超の経済大国。日本との文化風習の違いについてもある程度は理解していましたので、あって欲しいとは思えども、そこに人生観を変える程の衝撃はもはや無いだろうと漠然と考えていました。少なくともインドに着くまでは。
百聞は一見に如かず。そこには想像を超えた光景が広がっていました。
当たり前のように街中に住まう無数の野良犬。我が物顔でのんびり歩く牛。至るところに散乱するゴミや動物達の糞。都市部は慢性的な渋滞でクラクションの音は絶え間なく鳴り響き、信じられないほど多くの人で溢れています。
そして根強く残るカースト制度の影響もあり、本当に酷い経済的貧しさと社会的弱者の存在を目にしました。書き尽くすことは出来ませんが、衝撃の連続でした。ワクワクすることドキドキすることもあれば、目を覆いたくなる惨状もある。正に私にとっての別世界がそこには現存していたのです。
その中で最も印象的だったのはヒンズー教の聖地ヴァーラナシー(ベナレス)で早朝にみた光景でした。ガンジス河のほとりにあるガート(階段状の親水施設)には夜明け前から多くの人が集まります。祈りを捧げるバラモン僧、沐浴をする人、泳ぐ人、洗濯をする人、商売をする人、食事をする人、火葬をする人、遊ぶ子供、旅行者、そして私が知りえない多くの生き物たち。
薄暗い中、その全てが一体化しています。生も死もむき出しで突き付けられます。ここに分別できる物事は無いと。これこそが偽らざる日常であると。ガンジス河の水面を照らしながらゆっくりと昇る太陽がその変わらぬ事実を伝えているようでした。
私がインドにおいて強烈に気付かされたのは、自分の価値観でしか世の中を見ていないという現実でした。なんとも偏狭な、凝り固まった「ジャパニ」な自分。それは決して日本人として今の日本に暮らしている自分を否定するものではありません。只々、広大な世界と小さな自分を改めて自覚させられたのです。
インドは仏教発祥の地。釈尊がその生涯を過ごされ仏陀(真理を悟った方)となられた国です。私は日本の僧侶としてその場で体感したいことがあるからこそインドを目指しました。しかしそんな私の事情が全くの小事であると教えられる場所。それこそがインドでした。
果たして釈尊が二千五百年前に見られた風景はどんなものだったのだろうか。思いを馳せるばかりです。
▼インドに行っても行かなくてもお勧めの本です。
筆者 大淵英範