「備坊録」カテゴリーアーカイブ

備龍会メンバーが日々の思いを順番に綴ります。お題は世界の出来事から日常のささやかな幸せなど幅広く。もちろん仏さまのお話も。

生け花を通して

昨今、自宅で過ごす時間が増える中、そのおうち時間をいろどる趣味等をはじめられる方が増えているそうです。

私もそのうちの一人で、何か新しい趣味をと生け花をはじめました。

「生け花」

こう聞くと、
「そんなのただ花を適当に花器に生けるだけだから簡単だ」
と思われるかもしれませんが、これがなかなかそう簡単ではありません。

私は「閑渕流(かんえんりゅう)」という流派の教室でお花を習っているのですが、その流派で決められた様式の中で、手元にある花材の中から器とのバランスを考え、どの花を中心に添えるのか。

同じ花でも、手前に生けるのか、それとも後ろに生けるのかでがらっと全体の印象が変わってまいります。なので、私もお花を始めたての頃は、そういったことを考えながら生けていると、小一時間くらいあっという間に時間が過ぎていたなんてことがよくありました。

はたから見れば、何をそんなに時間をかけることがあるのかというところですが、こうした、考えながら生けている時間が楽しいのです。

どのように生ければ良い花になるのか。あーでもないこーでもないと、一輪一輪丁寧に生けていく。そうした試行錯誤の上出来上がった作品の唯一無二感はたまらないものがあります。

ところが、ここで一つ問題がございます。教室で生けた花を家に持ち帰り、同じように生けなおしても、あの唯一無二と感じたものとはどこか違うのです。その原因は何なのか。目の前の作品をあらためてよく見てみると、原因がわかりました。


そう、器が違うのです。教室で使用していた花器と家の花器とでは形が違うため、同じように生けても全体のバランスが違ってしまうのです。ですから、あらためて花器にあわせて生けなおすのですが、一度良いと思ったものをなおすのはなかなか抵抗があるものです。

そこで、ふと思うのです。思えば、私自身これまで積み重ねてきた経験等を大切にして生きておりますが、そのせいで人と意見が合わずぶつかってしまうことがございます。それもそのはず、その相手と私とでは育ってきた環境の違いから得てきたもの(器)が違うため、意見が違ってもやむを得ないのです。


であるにもかかわらず、こちらの意見や価値観をそのまま押し付けるようなことをすれば、それは相手に合わなくても仕方がありません。


けれど、そうではなく、器との調和を大切にする生け花のように、相手の相(器)を想いながら言葉を届けていくことの大切さを、私は生け花を通して学んだような気がいたします。


「花を生ける」ただそれだけなのに、なんとも奥が深いものでございます。

会員 金岡 恒宣

その名「備龍会」

先日のこと。
副会長(広報部長)からの一報。

「ずいえんさん、コラムの執筆お願いします。」
「執行部の任期も終わりですし、書いてください。」

彼との付き合いは学生時代から。過去私の方からたくさんの無茶振りをして来ました。断る理由が見つからず、

「オッケー、、、です。」


昭和48年6月に定められた備龍会の会則(目的)第二条には次の様に記されています。

この会は、教区内青年僧侶(二十〜四十五歳)相互の親睦交流をはかり僧侶としての自覚を高め、派内寺門内外の問題を研修し教法の弘通に資し相互発展に努めることを目的とする。

私が生まれたのは昭和54年の6月。その6年前に発会した備龍会。2年後の令和5年に結成50周年を迎えます。
これまで先輩諸氏が取り組まれた活動は数知れず。そのご功績をそれぞれの執行部が2年毎に引き継ぎ、移り変わる時代の流れに合わせて、より良い活動へと発展させ導いてこられました。試行錯誤の上築いてこられた伝統が今、この令和の時代に受け継がれています。
各種研修会や公開講座、特別養護老人ホーム「ふれあい」ダーナ活動等々、活動は多岐に渡ります。その中でも当会の代表的な活動の一つに、みのりせんべいの販売事業があります。

みのり煎餅

今から11年前、教区報という備後教区教務所発行の広報誌にみのりせんべいの特集記事を掲載することとなり、その際私が取材し、記事にしたものがあります。
少し長いですが、掲載されたそのままをご紹介します。ご一読ください。

もう一度申します。11年前の記事です。

備後教区報

最近「みのりせんべい」を食されただろうか。教区内を中心に多くの顧客を持つみのりせんべいだが、製造元の変更等により機材の整備が遅れ、ここ数年売り上げが伸び悩んだ。しかし、製造元のたゆまぬ努力により、製造工程を確立し、ようやく軌道に乗り始めた。みのりせんべいの現状を製造元にて取材した。

煎餅を焼く何とも言えない香ばしい、ほのかな香りが辺りに漂う。

ここは、福山市にある「しんふぉにい」の作業場である。ここで焼かれているのは、「みのりせんべい」である。決して広いとは言えない二部屋ある作業場で、効率よくみのりせんべいが焼かれ、確認作業の後、袋詰めにされていく。休日を除き、毎日午前10時から午後1時30分まで作業が進む。機械の温度調節等の理由で機械を停めることができないため、みのりせんべいの製造は交代制で休みなく続く。一回の製造工程に、みのりせんべいに焼き印を押す等の焼く作業、焼き具合の確認作業、袋詰めの作業に合計7名の方が携わる。作業場の中は高温で、夏場はかなりの重労働であることが想像できる。しかし、私語一つない厳粛な雰囲気の中で一つ一つ丁寧に仕上がっていく。みのりせんべいは、このような製造工程の上で作られている。

みのりせんべいの歴史を辿ると約30年前に遡る。教区内青年僧侶の会「備龍会」の発案で企画され、現在も備龍会事業の一環として教区内を中心として広く知られている。数年前までは長年にわたり「山口製菓所」により製造されていたが、店主がご高齢のためやむなく製造を中止することとなった。その後、いくつかの候補の中から、しんふぉにいに製造を委託することになり、現在に至る。

しんふぉにいは大阪の製菓所へ製造工程を学びに行かれ、みのりせんべい独特のサクサク感、香ばしい風味を研究された。しかし、しんふぉにいに製造が移った当初は製造ラインが一箇所しかなく、なかなか製造が追いつかず、しばしば各寺院等からの注文に対応ができない事態が起こった。また、みのりせんべい自体の味が変わった等の意見もあり、販売数を伸ばせずにいた。そのような厳しい状況の中、注文に追いつけなかった製造ラインは、同じく法人の作業場である「青葉」において、新たに機材を購入し、各寺院で主に永代経が勤まる4~6月、報恩講が勤まる9~12月あたりの、注文が殺到する時期にも対応できるようになった。

この様な状況を踏まえ、備龍会では新たな目標、試みを掲げる。例えば、現在では教区内での販売が中心だが、みのりせんべいを通して浄土真宗のお法りが広まることを願い、販売する範囲を拡大し、そのための広報活動を模索中である。また、各寺院での法要の供物として寺院関係者が利用しやすいように、パッケージ色のバリエーションを増やすこと、注文する側のニーズに応じた枚数、価格帯の変更なども検討されている。

現在の価格帯は別表を参照して頂きたい。申込み、問合わせは直接しんふぉにいまで。別途送料がかかるが、発送していただける。教務所でも申込み可能。先に述べた法要が多く勤まる時期で、注文数が多い場合はなるべく一か月前までには注文していただきたいとのこと。また、寺院名等をみのりせんべいに焼く場合の焼き印は、17000円前後で作製できる。お申し込みは直接しんふぉにいまで。

丁寧に、真心をこめて製造されているみのりせんべいには、昔も今も“ありがとう”“すみません”“どうぞ”と焼き印が押されている。何気ない言葉かもしれないが、現代の人々が忘れかけている言葉だろう。またパッケージには“身は食で こころは法で 生かされる”と記されている。私に真実の心を伝えてくれる“お法り”の種が、みのりせんべいには満ち溢れているように思えてならない。

(2010年発行『備後教区報』第136号)

過去の記事を長々と読んでいただきありがとうございました。こういった経緯の中、現在も社会福祉法人一れつ会しんふぉにいさんに製造を委託しています。

さて、記事の中で

“各寺院での法要の供物として寺院関係者が利用しやすいように、パッケージ色のバリエーションを増やすこと、注文する側のニーズに応じた枚数、価格帯の変更なども検討されている。”

とありました。

あれから11年。
平成27年に若干の価格変更がありましたが、パッケージ色のバリエーションを増やすこと等は時折話題に挙がっても、中々前に進みませんでした。そこには理由があります。当会の活動は多岐に渡る上、執行部は2年に一度体制が変わります。その都度みのりせんべい担当会員よりきちんとした報告は挙がりますが、しんふぉにいさんと当会双方で現状把握も含めて、じっくりと話し合いの機会を設ける余裕がありません。現執行部が2年前に引き継いだ当初も同様でした。

そこに訪れたコロナ禍。

昨年の3月から当会の活動の大半が中止を余儀なくされました。中止の決断に至るまで、開催を前提としての企画立案、検討etc.担当する各部長(副会長)、副部長、事務局長、会計、幹事、会員がギリギリまで思案し、奮闘してくれました。

新たな試みとして今年度の公開講座は、ZoomとYouTubeを活用してオンラインで開催しました。

冒頭の会則に則り、コロナ禍の厳しい状況で今我々に何が出来るのか。幾度となくオンライン会議を開き、話し合って来ました。

その結論が、

みのりせんべい事業の見直しでした。

しんふぉにいさんも交えて話し合いを持つ中に、現状をお聞きし、懸案事項であった消費税の増税、原材料の高騰に伴う価格変更、袋の新色パッケージについて検討することとなりました。

社会福祉法人一れつ会の相談役、しんふぉにい製造担当者、経理担当者の方を交えて、ソーシャルディスタンスに配慮しながら3回の会議を持ちました。先方のご事情や現状、製造くださる施設利用者さんのご様子等もお聞きして、話し合いが行われました。
当会が把握できていなかったことも多々あり、また当会の在り方、現状も改めて先方へお伝えすることが出来ました。

第3回みのり煎餅意見交換会

長々と書きましたが、結論を申します。

① 現行の3枚入りを2枚入りとすることにより、価格は据え置きとさせていただきます。
※2枚入りのサンプルを確認し、内容量としてもちょうど良い感じでした。

②現在のみのりせんべいパッケージ(袋)はそのままに、新色を2色追加します。 新色は、法要などの荘厳(供物のお飾り)に用いやすいことも想定しています 。
※味と風味はそのままです。

③販売方法については新執行部の意向を配慮し決定させていただきます。

このコラムを書いている現在、先方と詰めの段階を迎えています。6月中旬には、決定した詳細を正式にお伝えさせていただきます。

最後に、現執行部は今月の総会を持って任期満了となります。

コロナ禍において、結成50周年に向けて会員相互の親睦交流をはかれなかったこと、卒業される先輩方をきちんとした形でお祝いできなかったことが心残りです。
仕方のないことかもしれませんが、申し訳ない気持ちで一杯です。

この2年間、OB・現役を含めてたくさんの諸先輩にご助言や激励をいただき、大変心強かったです。
また、事務局長をはじめ、執行部、役員、幹事、会員それぞれが、責任を持ってこの状況下で奮闘、活躍しました。スマートな指揮を取ることが出来ない私を支え、個々のスキルアップを果たしてくれました。

この場でお伝えするのもどうかと考えましたが、心から厚く感謝申しあげます。

本当にありがとうございました。

そして、当会は2年後に結成50周年を迎えます。

備龍会結成40周年記念事業「お寺でフェスタ!」2013年 in 浄泉寺
備龍会結成40周年記念事業「お寺でフェスタ!」 2013年 in 浄泉寺

30代、20代に次世代を担う個性的で魅力あふれる会員がたくさんいます。今後の見通しを立てにくい状況下ではありますが、次の執行部を陰ながら支え、先輩諸氏、会員一丸となって周年行事を迎えたいと思います。

有縁の皆様、

今後とも備龍会へのご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申しあげます。

左から、研修部長:石川知全、交流活動推進部長:那須智雄、広報部長:川上順之、会長:山下瑞円、会計:柿原興乘、事務局長:島津慧

執筆者
備龍会第24代会長
浄福寺副住職
山下 瑞円

初参式

4月に入り、暖かく過ごしやすい日が増えてきました。日中は上着もいらないほどで、1歳の息子と遊んでいると少し汗ばむ日も増えてきたほどです。
実は、息子が生まれたら是非に…と思っていた”ある行事”をしたく、去る3月15日、京都の西本願寺へお参りしてきました。さて、ある行事とは?

そう、タイトルにある「初参式」です。

初参式とは生まれて初めてお寺にお参りさせていただき、阿弥陀様と御縁を結ぶ素晴らしい行事です。神社へお宮参りに行くように、お寺にも初参式に参るという行事があるのです。
本来であれば1歳前にご報告に行きたかったのですが、緊急事態宣言下ということもあり解除を待って1歳9ヶ月でのお参りとなりました。

本願寺に着いてまず驚いたのは…なんと人が少ないこと!いつもなら沢山の参拝の方や観光客の方がおられるのですが、海外のお客様の姿どころか日本の方々もほとんどいらっしゃいませんでした。コロナの影響とはいえ普段の様子を知っているだけあり、少し寂しい気持ちになりました。しかし、敢えて人が少ないタイミングで参るということは、生まれて間もない小さな赤ちゃんも安心して連れてこれる良い機会でもあると感じました。

まず、御影堂(ごえいどう)の左手、一番奥の龍虎殿(りゅうこでん)にて初参式の受付をします。周りを見渡すと私ども含め三家族が参られていました。お子様はベビードレスの上から産着、ご両親はスーツやワンピース等。初参式と言ってもどんな格好で行けばいいの?と思われがちですが、お宮参りに行くように初参式でも同様の格好の方がほとんどでしたので、どうぞ安心して参ってください。
受付の後は御影堂に案内していただき、お勤め・ご焼香・ご法話の順で進みます。一家族毎に分かれてご焼香をするので、そのタイミングで写真撮影も出来ました。終わってからは家族毎の写真も撮って貰えるのでカメラをお持ちの方は是非持っていくことをおすすめします!

しかし、大きくなってからのお参りはまた良いものでして、毎朝お仏壇に「なむなむ」と手を合わせている息子は御本尊の前でもしっかりと手を合わせ、頭を下げ、目をつむり、少し大きめの声で「なむなむ」と言ってくれました。ご焼香の際も慣れた手付きで自ら進んでやっている姿を見て、毎朝しっかりとお勤めしてくれているんだなあ。妻が進んでやってくれたおかげだなあ、ありがたいなあ。と妻と息子へ感謝の気持ちがこみ上げると同時に、そういった気持ちになれたのは一重に阿弥陀様との御縁あってこそだということを改めて感じることができました。

お式が終わり、後は記念品を頂くのかな?と思っていたら、なんと!書院や能舞台など普段入れない国宝や重要文化財の中を案内していただけました。成り立ち、どういう人物がどういう意図で作ったか、能舞台はここならではの〇〇で演者泣かせだった(〇〇は行ってからのお楽しみ)等、普段では知り得ないことを丁寧に教えていただき、子の初参式ではありますが、大人の私達もまた、多くのことを学ぶ大変素晴らしい時間を過ごすことができました。
お茶席では先程案内頂いた能舞台とは別の美しい能舞台を見ながら、銘菓松風と共に本願寺専用のお抹茶を、子どもはジュースを頂き、お式でのシャンとした気持ちを優しく解きほぐすことができました。その後、再び書院等を案内頂き、最後に記念品としてお念珠やお念珠袋等を頂いて終了となりました。

念願叶って参れたこともですが、息子はもうすでに阿弥陀様との御縁を毎日頂いていたこと、日々手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称えていたことが今回のお式で生きてきたなあと嬉しく思います。
今回私どもは西本願寺に参る御縁を頂きましたが、遠方で行けないという方、ご安心ください。お近くのお寺でも初参式を受けることができますよ。ただ全てのお寺でやっているわけではないので、お世話になっているお寺がある方はそちらに確認されたり、また、お近くのお寺へ聞いてみられてはいかがでしょうか。生まれてすぐ阿弥陀様とご縁を頂くことは、またとない貴重な経験でございます。お子様はもちろん、大人にとっても大切なご縁になると思います。私自身この度の初参式に参らせていただき、改めて阿弥陀様とのご縁を仰がせていただく機会になりました。どうぞ初参式に参られてみてはいかがでしょうか。

執筆者 立神智弘

演劇部という世界

「部活何やってたん?」
「演劇部やで」
「じゃあ泣いてみてや!」
演劇部でしたというと、大体聞かれます。演劇部といっても泣く練習なんてしたことありません。ドラマや映画を見ていると、よくあんなに涙が出るもんやなーと逆に感動します。やっぱりプロは凄いですね!!

 私は高校の時、演劇部に所属していました。演劇部っていうと、マイナーなためあまりピンとこないと思います。そんな演劇部の世界について、ご紹介いたします。

 演劇部では、「発声」「台本読み」「劇練習」と大まかに分けて練習をしていました。この中でも、「発声」は体力づくりと活舌、羞恥心の克服を兼ねた基本中の基本の練習でした。「あめんぼ赤いな あいうえお~」などが有名ですが、私がいた演劇部では江戸しりとり唄の「牡丹に唐獅子」(コラム最後に掲載)というものを毎日やっていました。毎日やっていると不思議なもので、1ヶ月経たないうちに何も見なくてもできるようになります。こういった発声練習を部室だけでなく、校内や学生が行き来する自転車置き場や校門でやるので、皆からジロジロ見られます。大体の部活もそうだったと思いますが、慣れるというのは結構大切ですね。

 毎日の練習は、もちろん上手くなるためですが、やはり大会で優勝するためでした。「演劇部って大会あんの!?」とよく驚かれますが、もちろんあります。演劇部では、年2回春と秋に大会があります。春大会は新入生にとっての初舞台です。私も初めての舞台はめちゃくちゃ緊張しました。初めてのセリフは鳩時計のモノマネだったことを覚えています。ただ、春大会は順位を決めるわけではなく、他校との合同鑑賞会のようなものでした。
代わって秋大会は、全国に約2000ある演劇部の頂点を決める大会です。県大会で1位になると、全国を9つに分けたブロック大会、そこで1位になると全国大会に進めます。上演時間は60分以内、装置の設置から退去の時間は30分以内と定められています。1秒でも超えると失格です。ブザーが鳴り、幕が上がると客席の顔は見えません。これまで練習してきた通りに、流れを乱さず演じていきます。それでも想定外のアクシデントやちょっとしたミスは起こってしまう時があります。そんな時、顧問の先生の言葉が頭の中で流れます。「アクシデントというものは、気を付けていても起こってしまいます。その時はその時。焦らず落ち着いて、身を任せない。」今でも先生の言葉が残っています。

 演劇部は、「one for all, all for one(一人は皆のために、皆は一人のために)」を体現した部活であると先輩から教えられました。演劇は、皆と共に同じ舞台に立ち、その場でしか感じられない一瞬が詰まった60分間を過ごすことができる世界だと思います。演じた役は、そのほとんどが現実にもあるような人々ばかりでした。でも、その時々で異なる自分自身を作り上げることができました。熱くて楽しく、当時の私にとって一番大切だった演劇部という世界でした。

執筆者 窪田滋弘

魚山流声明

「0120、333の~・・・」と口ずさめば、実際に電話をかけたことがないのに番号だけは覚えてしまっている、ということがありますね。これは、単なる数字の配列にメロディをつけたからです。お経に節をつけるのも同じで、仏さまの教えを私たちの心にたもつために音曲として成立したそうです。

さて、お経に独特な旋律をつけることを「声明(しょうみょう)」といいます。西洋音楽の「ドレミ」の単音とは違い、写真のようにヒョロヒョロした線の組み合わせによって、全体の旋律ができています。さらにこの線は「水の仲間」「風の仲間」など自然と調和した音ごとに分類されるそうです。まさに、ネイチャーサウンドです!

また、本願寺の声明の旋律は、近年のオルガンを用いた「音楽法要」を除けば、すべて天台宗からきています。もともと本願寺が天台宗青蓮院と深い関りがあり、親鸞聖人が天台僧であったご縁です。
もっと遡れば、“最後の遣唐使”慈覚大師円仁(延暦寺第三代天台座主)が、中国の五台山から声明を持ち帰ってこられたご縁です。円仁は、わが国で「大師」号を持った第1号です。その声明曲を京都・大原の地(京都市北東)におとされました。タイトルにもある魚山というのは、大原にある三千院(天台宗寺院)一帯の別名です。
魚山とは、中国山東省東阿県の西にある山の名前です。中国の三国志の時代にいた魏の曹植(そうち)が、ある日、魚山で遊んだとき、空中から響く梵天の声に妙音を感じ、たちまちに唄讃(ばいさん・仏さまをほめたたえる音曲付きの詩文)を作ったとの故事があり、大原の地もその事に因んで魚山と名付けられたそうです。

大原三千院

そして、さらに遡れば、五台山にいた法照禅師(ほっしょうぜんじ)が、90日間の念仏三昧、つまり、瞑想し浄土の世界を観ておられたときに編んだ音曲というご縁です。
浄土真宗の「念仏成仏コレ真宗」というご和讃は、もともと法照禅師のお言葉です。また、お葬式やお寺での法要の冒頭に、導師が「ぶぅ~じょぉ~・・・」とあげる旋律、さらに、正信偈行譜(ぎょうふ)の後半「ぜぇ~ん~ど~・・・」、あれらは、法照禅師のご作曲です。本願寺では改譜されているため、その名残は少ししか残っていませんが、長い歴史のなかで伝えられてきた声明を今お称えしているのです。

もともと、真宗寺院の本堂の造りというのは、緻密に計算された音響部屋です。本堂そのものがひとつの「楽器」となって、雅楽や声明、あるいはお説教の声が聴衆に響き渡るような構造になっていました。蓮如上人の工夫であると聞いています。
たとえば、阿弥陀さまのいらっしゃる台を「須弥壇(しゅみだん)」といいますが、この壇の床は「鏡板(かがみいた)」といい、漆塗りです。鏡板は能舞台の専門用語でもあり、音がしっとり反響するように出来ているそうです。
また、欄間(らんま)は、外陣から見れば精巧に彫られていますが、内陣からみると、ざっくり彫られているだけです。これは、内陣側も細かくほると、音が複雑に反射して、澄んだ音にならないからだそうです。これらは一部ですが、先哲が愚直なまでに「音」にこだわっていた証拠です。身体で宗教を感得する世界なのです。

昔は、声明も教義もみな「口伝(くでん)」だったそうです。テープで聞くより、生身の人間を通して聞かなければ伝わらないことがあるというのは、想像できますね。お釈迦様が文字を残すことに依存されなかった理由も、それが一つです。同じ話でも、本で知ること、テレビで知ること、人から直接聞くことでは、雲泥の差であることは、いうまでもありません。録音技術の目覚ましい進歩と引き換えに、私たちの技術や感受性はますます乏しくなっていくかも知れません。

話が大分それましたが、昔の門徒さんも聴いてこられた魚山声明の世界を今おぼつかない足取りで、真似ごとをさせていただいています。本願寺では改譜されているため、おそらくほとんどの方が「初めてきいた」と思われることでしょう。8世紀から一つも変わらない旋律を聞くって、すごいことだと思います。今、このような基本から勉強できる環境はほとんどありません。決してやる気がないのではなく、そういった旋律を正しく学ぶ機会がないのです。私がこうして触れられるのは、本当にたまたまなのです。不思議なご縁で、とことんのめり込んでしまいました。

とても流麗で優雅な、そして、どこか切なげで、やはり無常を感じる・・・
皆さんとそんな風に時間と空間を共有出来たらな、と思います。この世界、10年やって一年生、20年やって一人前といわれます。
こんな声明の世界にも、ようこそようこそ!

執筆者 児玉隆志

ニッチなチャリティーイベント「GDQ」

今回はニッチなチャリティーイベント、GDQ(Games Done Quick)のご紹介。

2010年から毎年アメリカで夏と冬に開催されており、ビデオゲームのRTA(リアルタイムアタック、最速クリアタイムを目指すプレイ)を動画配信サイトtwitchで生配信して寄付を募るという一風変わったイベントだ。
各シーズンの期間中は走者と呼ばれる凄腕プレイヤーが次々と登場し、レースゲームからアクションゲーム、はてはロールプレイングゲームまでのプレイを様々なパフォーマンスとともに披露し、会場と配信サイトのコメント欄を大いに盛り上げてくれる。もちろん日本人走者もいるので若干の親近感は得られるかもしれない。
何度かリアルタイムで視聴した経験から言える事は、ゲームに疎くてもエンターテイメントとして楽しく見る事のできるイベントという事だ。ただこのイベントは英語進行がメインであり、骨の髄までどっぷりと内容を知りたい場合は、有志による日本語進行、日本語解説のミラー配信を視聴しよう。

では、当イベントの興味深い場面をいくつか紹介しておこう。

任天堂のファミリーコンピュータ用ソフト、スーパーマリオブラザーズでは、二人の走者によるレース形式でのプレイ中、片方の走者がバグ(機器トラブル)ってしまい、泣く泣く最初からやり直しになってしまったところ、もう一人の走者がプレイをやめてその場で待つ、というプレイがあった、この際の会場とコメントは走者の紳士っぷりに大いに盛り上がりを見せた。余談ではあるがスーパーマリオブラザーズの世界最速クリアタイムは4分55秒646である。
その他にも、片麻痺の障がいを持つ走者が登場、左手だけでのゲームの最速クリアを披露。ただただ圧巻の内容に多くの人々、中でも同じ境遇をもつ人には衝撃と感動、そして勇気をもたらしたに違いない。その他にも、目隠しでのゲームプレイや1人で2つのコントローラーを持ち2人用ゲームをプレイするなど趣向の凝らされた運営内容だ。

こういったプレイの中、視聴者はいつでも動画配信サイトtwitchを通して寄付をする事が可能で(ほかにもグッズを買うことで寄付になる)、全体の寄付額も随時確認できる。もちろんゲーム、会場の盛り上がりに応じて寄付も多く寄せられ、最終日には「石油王」と揶揄される高額寄付が次々と寄せられる。ここだけでも一見の価値があるほどに盛り上がる。ちなみに去年2019年夏の総寄付額が300万ドル(約3億1800万円)超えと話題になったが、今年2020の夏は総寄付額が310万ドル(約3億4000万円)、去年を超え過去最大となっている。寄付金は慈善団体である「国境なき医師団」や「がん予防財団」に全額寄付されている。
1週間昼夜ぶっ通しで開催される当イベントは、多い時には何十万人という視聴者がおり大いに盛り上がりを見せ、莫大な寄付金とともに華々しくフィナーレを迎えるといった内容だ。

と、ここまでGDQの概要を紹介した上で伝えたい事がある。
ここ最近のゲームを取り巻く環境では、eスポーツ(ゲーム競技)などの話題もあり何かと脚光を浴びる事が多くなったが、「罪」として取りだたされる社会傾向があるように思える。
ゲームには年齢制限システム「CERO」があり、暴力、言語、思想、性、反社会的表現の度合いによって対象年齢が定められており、店頭でゲームを買う際にも、年齢確認や「小さなお子さんには見せないで」などの注意もあるが、ゲームは健康的ではなく、ただの自己満足で生産性もない、それどころか、引きこもりの助長、犯罪の誘発など「罪」そのもののように扱われるケースもある。
ただ一方でゲームの「功」に目を向ければ、このイベントがそうであるように、自らの普段の行いとはかけ離れた、とてつもなく尊い行いがなされているのである。また、最近は思考力や集中力が鍛えられるゲームも数多く存在し、脳が活性化するという面もある。世界的には「eスポーツ」として認められ、世界大会も開催されており、さらにはオリンピック種目に入るかもしれないと注目を集めたりと、従来のイメージとは大きく変わりつつある。

ゲームに疎い人、ゲームが好きな人、反感がある人、寄付に興味がある人、とにかく是非一度GDQに触れてみてほしい。

最後に、素晴らしきニッチなイベントGDQに感謝を込めて一言。

「ゲームが地球を救う!」

執筆者 小林朋行

戦国最強武将!初代福山城城主水野勝成

備後教堂を出て、福山城を背に陸橋沿いを歩くと、備後教堂駐車場があります。その途中にある公園の隣に大きなお墓があります。このお墓は、初代福山城城主、水野勝成のお墓です。

水野勝成のお墓

水野勝成という人物。福山市在住の方でも、よそから来て福山を発展させた、じみ~な殿様?という感覚でしょう。実は徳川家康の22歳年下のいとこにして、2代将軍徳川秀忠とは乳母兄弟。全国各地の合戦に出陣し次々と手柄を立てるものの、ある時は父の家臣を斬ってしまい追放、そしてまた次の戦場で手柄を立てては、もめ事を起こして逃亡…と、血の気の多い逸話と戦働きから、「鬼日向(おにひゅうが)」・「倫魁不羈(りんかいふき)」(あまりにも凄すぎて誰も縛ることが出来ない)と呼ばれ、コアな歴史ファンからは戦国最強武将といわれています。それでいて晩年は、中国地方唯一の譜代大名福山藩主として、10万石でありながら、実質30万石と言われる豊かな土地へと発展させていった治世の名君でもあります。今回はその生涯を紹介していこうと思います。

※歴史の解釈は諸説あるのでご了承ください。

① 16歳にして討ち取った数、〇〇人!?

勝成は永禄7年(1564年)、三河国で水野忠重の長男として生まれ、母親は、なんと本願寺11代門主顕如上人の妹君、妙舜尼さまだそうです。
初陣は1581年16歳の時。織田家家臣として武田家との高天神城合戦。同年、第二次高天神城合戦の出陣では敵を討ち取る働きをしています。その数なんと15人!これには第六天魔王こと信長様もさぞご満悦だったのでしょう。鬼人のごとき働きを見せた16歳の少年に感状(領地安堵の確約や戦働きを褒められたお手紙)を贈っておられます。その翌年、本能寺の変が起こります。

② キレて父親の重臣を手にかける!?

本能寺の変の後は徳川家康に帰参。北条家との黒駒合戦では一番槍。小牧・長久手では秀吉軍を相手に、兜をかぶらず出陣。父に怒鳴られながらも一番槍と首級を挙げる手柄を立てます。
そんな勝成ですが、父の忠重とはうまくいかなかったようです。父親の家臣が勝成の素行を報告したことでその家臣を斬殺。追放と奉公構(他家への仕官禁止)まで出されてしまいます。勝成21歳。若い頃に「うつけもの」と呼ばれた信長のようですが、それを上回る、まさに倫魁不羈という人物ですね。

③ 自分を求めて諸国放浪の旅と姫谷焼職人という道

奉公構を出されたものの、水野勝成の武勇は全国に轟いていました。まず秀吉の配下となり、四国征伐では仙石秀久、九州では国人一揆鎮圧などで、佐々成正や黒田官兵衛、立花宗茂、小西行長、加藤清正、備中でも三村家に仕え、その都度手柄をたてます。しかし、すぐに出奔してしまうのです。その放浪の旅は家康に許されるまで15年にも及びます。
西日本各地には出奔動機や出奔後のさまざまな伝説が残っています。姫谷焼職人として姫谷焼を焼いていたとも、虚無僧になっていたとも。また主君の配下を斬ったとも。 

姫谷焼窯跡

④ 実は勝成、謀略家でもあります

勝成36歳の時、秀吉が死亡すると家康に再接近。家康のとりなしにより15年ぶりに父と和解します。と、その直後の翌年。父忠重が石田三成の配下、加賀井重望によって暗殺され、急遽水野家を継ぐこととなったのです。
復讐に燃える勝成、関ケ原の合戦。徳川陣の真後ろにある大垣城を攻める大役目を与えられます。この大垣城、二の丸・三の丸には九州武将が多く守備しており、勝成はその武将を次々と寝返らせ、大垣城を数日のうちに落城させます。同時に父を暗殺した加賀井重望の息子、弥八郎を討ち、かたき討ちも果たしたといわれています。

⑤ 勝成52歳大坂の陣。戦を知る武将として大和方面軍先鋒大将を任される!

1615年大坂夏の陣、すでに50歳を超える勝成ですが、戦国最後の合戦にも息子と参戦し、夏の陣では大和口方面の先鋒大将を任されます。勝成のことをよく知る家康は、
「大将は絶対に前線へ出てはならない。絶対だぞ」
という命令をしたにもかかわらず、それを無視して後藤又兵衛軍に突撃。大坂の陣道明寺合戦が始まります。勝成は自ら一番槍をあげ、後藤又兵衛を撃破、第2陣の橙武者薄田兼相を討ち取り、真田幸村など大阪方主力軍と対峙します。ここで決戦だと勝成が意気込んでいたところ、伊達政宗に3度諫められて兵を撤収させました。翌日の最終決戦では、真田幸村に襲われた徳川本陣へいち早く駆け付け、真田軍を壊滅。続いて明石全登を討ち取り、勝成自身も2つの首級を挙げています。

⑥ 戦国最後の大戦を大将として見届け(自分も槍をふるう)、福山藩主として名君主となる

1619年、ついに勝成は備後福山藩主となります。転封に際し、神辺城から新たに福山城を築城。武家諸法度で築城が禁じられた中、唯一築城が許された最後のお城であり、600m²の土地に、京都伏見城の伏見櫓など20を超える櫓、5層6階を超える、10万石のお城としては破格のサイズであります。
春日池や服部大池を建造して、瀬戸内海や芦田川などの水道網、城下町を整備し、藩の産業を興して福山市の礎を築いていきました。

伏見櫓

⑦ 1638年(大坂の陣より23年後)水野勝成74歳、子や孫に囲まれて…

天草の乱鎮圧に向かいます。
幕府から本州で唯一出陣要請を受け、長男俊勝、孫の俊貞とともに兵を率い、3代将軍徳川家光の命で、老中の相談役という、実質総大将と同格扱いで請われます。島原に到着すると、同日さっそく軍議を開始。その軍議で100日も兵糧攻めをしていたことを知り、今こそ好機とすぐに総攻撃をするよう一喝し攻撃を開始します。さすがに勝成は最後列でしたが、息子の俊勝は本丸一番乗りを果たします。この天草の乱鎮圧後、ついに勝成は隠居となりました。

⑧ 人間50年

信長49歳、秀吉61歳、家康でも75歳。勝成は88歳まで長生きしています。しかも87歳に37mの距離で鉄砲を撃って当てた的が残っています 。「諸人驚目也」と書いてあります。もし水野勝成が、多くの戦の中、一歩でも間違えて討ち取られていたら今の備後地方は大きく変わっていたでしょう。それにしても、城主として家臣にとても慕われ、領民にも愛されていた福山初代藩主が、戦国最強と呼ばれる武将とは思いもしませんでした。
時には歴史に思いを馳せるのもいいものですね。

水野勝成の銅像

参考
歴史秘話ヒストリア「戦国ラストサムライ 絶対曲げない水野勝成」
国立国会図書館データベース「史籍集覧、第十六集 水野日向守勝成覚書」
Wikipedia

執筆者 椙俊道

お仏壇がある家(ご門徒のお仏壇にお参りして)

家という漢字はウカンムリ(屋根)の下に豕(猪・豚)がいるという象形文字です。「善人ばかりの家は争いが絶えない」という格言を寺院の掲示板でよく見かけますが、正義だって豬のように「猪突猛進に、真っ直ぐ」追求したら、他と衝突も多いことでしょう。

その猪を家畜化した「豚」は俗に仏教でいう愚癡(おろかさ)のシンボルとされ、凡夫の「分かった」と返事は良くても同じミスを繰り返すような理解の欠如。真理に反発・反抗する気持ちなども含め、根源的な暗さに例えられる動物です。この豬や豚の心を「豕心」と書いて「貪欲で無恥な心」を意味しますので、一つ屋根(家・社会)の下に恥知らずな欲張り心をもつものが住んでおり、同じ方向どころか各々に違った方向を向いてブーブー言いながら生きている。そんな解釈もできるのが「家」という字です。

浄土真宗の先人方は、お仏壇を「御内仏(おないぶつ)」と呼んで、単なる置物や箱ではない、家のなかの仏さまとして大切にしてこられました。その仏様(阿弥陀様)をお迎えする法要を浄土真宗では入仏式と言います。それは決して仏様に魂を入れる儀式ではなく、仏様をご本尊としてお迎えしたことを慶び、そのお徳を讃える法要です。また、その法要を「おわたまし」とも言います。それは、いのちの拠り所となる柱(尊い方・仏)が我が家に御渡りになられたという意味です。コロナで「STAY HOME」と叫ばれ、家で不安・不満の日々を送りがちな今だからこそ、家族ひとりひとりが偉いものになる畜生の心を増長させず、お仏壇の前に謙虚に座して、仏の大悲に親しく密接な一日を送っていただきたいと思います。

そんなわけで今回のコラムは「家のお仏壇」に関する体験や写真を三点ほど紹介させていただきますので、お付き合いください。

1.法要のオンライン化

コロナで非常事態宣言が出された四月某日、ご門徒さんの家で「法事のライブ中継」というご縁にあいました。もしもの感染リスクを考えて帰省を自粛、家にはお母さんと年若い夫婦と子供だけでしたが、「今日はスマートフォンで法事の様子を送ってもいいですか?オンラインでライブ中継しようかと思いまして」との事。家の方はスマホをかまえて、もう片方の手には経本とお念珠を持ちながらでしたが、法要のみならず御文章・ご法話から合掌礼拝まで、離れたところにいる方もリアルタイムにご一緒してくださいました。

終了後すぐに、「岡山の妹が礼を言っています」「広島にいる息子は法事の様子をTVに映して、子供たちと手を合わせたようです」と、写真(右上)を見せてもらいました。家の人たちも「こうゆう法事もいいですね」と喜んでくださり、私自身も有難さを一入に感じました。オンラインの是非はともかく浄土真宗は聞法教団ですから、いわゆる聖地の巡礼や参拝などを重要視したり、法要儀式だけを優先している宗教ではありません。どれだけ時代が進んでハードウェア(形や儀式)が変化しても、お仏壇の中身・本質にあるものに一人一人が遇うことが大切なことだと、あらためて感じるご縁でありました。

2.受け継がれてきたもの

そういった時代の変化もありますが、お仏壇の周りには古いものが何十年も変わらずに残っていることもあります。その枚挙に暇はありませんが、古い御文章をはじめ、仏教に関する珍しい額や軸、早世した父が自筆されたという「明日ありと思う心のあだ桜」の文字などを見つけて、家の方と盛り上がることもしばしばです。どの家にも歴史・背景があり、世代をこえた思い、痕跡が偲ばれます。その一例にこんな影像を見かけることがあります。

本尊の右側に恵信尼様(あるいは玉日姫)らしき女性が、親鸞聖人らしき僧侶と並び座している一幅の御影です。数は少ないですが、地域をとわず、本尊の右隣りに安置されている姿をお見掛けします。浄土真宗の本尊は阿弥陀如来一仏で、御脇掛は親鸞聖人、蓮如上人の御影もしくは九字、十字名号をお掛けして、このほかの絵像やお札の類を置いてはいけない、と昔から伝えられてきましたので、お取次ぎの寺や本山がご下付したものではないでしょう。
親鸞聖人の妻は口伝鈔に恵信尼の名が伝わってはいても、観音の化現たる玉日の伝説や作り話の類がきわめて多く、『恵信尼消息』を発見された鷲尾教導師が
「芝居かかった唱導者の手際で、明治大正の今日まで愚夫愚婦の俗信に合致して玉日の墓とやら、その木像とやらを拝ませて、玉日講などといふ様な結社まで出来て、其勢力侮るべからざるものがある。」
と述べておられるので、おそらくそういった時代に作られて流布されたものではないか、と私は推測しています。しかしそれでも恵信尼様を慕って、当時の家の方が長く大切に伝わるように御内仏に掛けられたのだろうと思います。

3.仏壇に造花はダメ

このように正式のものではないから仏壇に入れちゃダメ!と四角四面に言うつもりはありませんが、それでも声を大にして言いたいことがあります。

ある家でのお参り後、お茶を頂きながら談笑しているときに、ロウソクの灯が花にうつり、その炎が大きく燃え上がる事件に遭遇したことがあります。家の人とあわてて消そうとしますが、ぜんぜん消えずに、炎はさらに大きく燃え広がっていきます。よく注視してみれば、造花の花(石油由来製品)ではないですか!仕方なく花瓶ごと抱えて縁側の外に運びましたが、途中でボタボタと黒い汁が火のついたまま下に落ちるのです。なんとか事なきをえましたが、本当に心臓に悪い出来事でした。

今までもロウソクと花瓶の位置が近くて、葉や花が焦げたりすることはありましたし、仏壇周辺に線香や落ちても燃えないように配慮されたものを使っているご家庭も多いので、そう簡単に仏壇から火事になるケースは少ないだろうと常々思っていましたが、それを覆してしまう出火原因の一端を見たような気分でした。危ないから仏壇に「ロウソクの火を使わない、使わせない」という議論もありますが、その前に造花のような異常に燃えやすいものを置かないように注意しないといけません。

今後のために当時の門徒宅での状況をメモしました。参考までに

  1. ロウソクの炎と花は約2~3cm離れていました(接触していないのに燃えた)
  2. 点燭後30~40分たってから、花に燃え移る(地震や風なども無し)
  3. 仏壇が異常に明るくなるほどの炎。(約1分で花の1.5倍程度の炎になった)
  4. 造花は燃えたあと黒い汁となって、下にボタボタと落ちる。あるいは黒く縮んでいくが瓶や床など他のものに付着して更に燃え続けた。
  5. 上写真の検証で使用した造花は、ポリエステル・ポリエチレン製のもの。

以上、ご門徒宅のお仏壇で体験したことを紹介させていただきました。コロナウィルスの影響で家にいる時間が長くなっている方も多いと思います。これを機会に、阿弥陀様のお心に触れながら、お仏壇の掃除をしてみるのもいいかもしれませんね。

コラム資料:諸橋轍次著『大漢和辞典』、鷲尾教導著『親鸞の室玉日の研究』、大阪教区イラスト素材集

執筆者 藤井迎朋

中央仏教学院 創立100周年を迎える

今回は、2020年に創立100年を迎える浄土真宗本願寺派の宗門校である中央仏教学院について取り上げてみたいと思います。

西本願寺のお坊さんといえば「龍谷大学」出身者が多い中、この中央仏教学院でお坊さんになった方もたくさんおられます。ちなみに私もその一人ですが、私の場合、仏教とは直接関係のない大学に進み、卒業期を迎えて進路に迷っていたところ、ある住職のひと言がご縁となりました。私の祖母の従弟 故・豊浦順海住職(比婆組円光寺)の一言です。

「あんた中仏へ行きんさい」

入学するきっかけはこの一言に尽きるのですが、今になって考えれば「この道を行けよ、この道を行けよ」と仏道を勧めてくださったお釈迦様の発遣と重なるものがあります。豊浦先生にはその後もお世話になることになり、憧れの先輩であるとともに、今でも感謝する人の一人です。

中央仏教学院へ入学する人の大半が、なんらかの出来事、どなたかの進言によって入学されていました。例えば私の親友の一人は、たまたま結婚する相手がお寺の後継ぎ娘だったこと(このパターンが結構多い。きっかけがきっかけだけにやたらと頑張る)。もともと門信徒の方で所属の住職に勧めてもらって勉強に来た人。そして外国から浄土真宗の魅力に魅かれて入学した人(その後ネパール開教地カトマンズ本願寺の初代開教事務所長となるソナムさんもその一人で、昼休憩によくバレーボールをして遊んだ)等。あの時、もしも別の道を歩んでいたら・・今の私はありません。それぞれが、それぞれのご縁をいただいて集まった人たちです。

中央仏教学院には、通学制の本科、研究科、予科と、京都から離れた地域でも浄土真宗が学べる通信教育部とがあります。最大の魅力は年齢幅がすごいことです。若い方は18歳から年配は90歳くらいの人が一緒になって浄土真宗を学びます。そのせいか、講師陣や職員は皆温かく、大きな家族みたいな雰囲気がありました。善導大師のお言葉「広開浄土門(誰に対しても浄土の道は開かれている)」の精神でしょうか。入学手続きと試験はありますが、学院の扉は入門を求める者たちに広く開かれていました。

中央仏教学院の本堂(法要の様子)

大正9年に本願寺境内で開校され、移転の後、現在の京都市右京区に校舎を構え、数多くの方に浄土真宗のみ教えを広め受け継がれてきました。私が入学したのは2001年。すでに新校舎となり、新しい寮が設けられていました。人生を180度方向転換し、「仏門に入る!」ということで、かなりの覚悟で入学、入寮したのですが、大体そういう意思が長続きしない私です。生活に慣れ、仲間ができるにつれて、元通りの体たらくな自分がしっかり顔をのぞかせました。しかし振り返れば、善き師の進言により浄土真宗を学ぶご縁をいただいたこと、寮のおかげで規則正しい生活と善き先輩と学友にであえたことが、私にとってその後の人生において大きな宝物になりました。

2001年は、たまたま創立80周年記念法要が勤まる年でした。ご門主様ご臨席の記念法要の導師を勤めた学生。それが私です(これが言いたかった!)。指導講師には、「ご門主様以外全員野菜だと思え」と緊張をほぐしてもらいました。

その中央仏教学院が、今年創立100周年を迎えます。
「学びの窓から新たな未来へ For the future」
素晴らしい学び舎が、これからも浄土真宗を相続していく人々を多く輩出されることを念じております。

執筆者 藤井晃宣

ラーメンと仏教

国民食という言葉を知っているでしょうか?その国で広く親しまれている料理を指す言葉です。国民食には大きく二つの種類があります。一つはその国で考案され生まれた料理、もう一つは他の国で生まれて持ち込まれた外来の料理です。この外来の国民食の代表格、それがラーメンです。ラーメンは中国で生まれた麺類ですが、もはや説明することが野暮なほどに日本人の生活に根付き、日本人のソウルフードとなっているものです。そして、ラーメン好きの私は気づいたのです。ラーメンと仏教の共通点の多さを!
 
仏教とラーメンの共通点は極めて多いのですが、ここでは3つを挙げておきましょう。
 
一つ目の共通点は、外来であるのにも関わらず日本を象徴するものであることです。とある旅行サイトを見ると、外国人に人気の観光地トップ10の中に、東大寺、三十三間堂、高野山奥之院、金閣寺の4つの仏教寺院がランクインしています。日本らしいものを観たい外国人はお寺へ行き仏教に触れているのです。外来であるはずの仏教は今や日本を象徴するものになっています。そして外国人が好きな日本食ランキングでは不動の寿司に次いでラーメンが選ばれています。ラーメンはその美味しさで外国人を魅了するとともに、日本食として完全に定着しているのです。ラーメンの日本における文化的地位はもはや仏教と同一のものと言ってよいでしょう。
 
二つ目の共通点は、懐の深さ、すそ野の広さです。仏教には8万4千種の経典があると言われ、その膨大な智慧の集合体を仏教と呼んでいます。仏教の中には多種多様な信教思想が混在し、それに伴って多くの教団、宗派、一派があり、玄妙な教義を各々に確立しています。仏教という大枠の中にありながら、様々な教えが数多く存在し合っている広義な宗教です。つまり、仏教において信仰を問われたならば「あなたの仏教はどんな仏教?」の問いが必要になってくるのです。
同じように、ラーメンほど多種多様な料理も他には存在しません。仮にあなたが「ラーメンを食べに行こう」と誘われたとしましょう。するとあなたは「どんなラーメン?」と聞き返すでしょう。このような料理は他にはないのです。ラーメンは麺、スープ、具材その全てか細かくカテゴライズされ、その細微な違いによって全く別の料理になってしまうのです。こってり系とあっさり系においては、もはや好む人種は全く違うと言えるでしょう。寿司、お好み焼き、カレー、そば、など他の国民食にそのようなことは断じて起こりえません。ラーメンの奥深さはもはや仏教と同一視せざるをえない、私は勝手にそう思うのです。
 
そして最後に三つ目の共通点、それはどちらも人を幸せにするものであることです。仏様のご利益を一言で言うならば「抜苦与楽」でしょう。苦しみから解放し楽を与えて下さる教えです。全く同じではないが、ラーメンにもそれに近い要素があります。一口食べたその瞬間、私の細胞の隅々まで行き渡り、私の全てを包み込み、私にこの上ない至福を与えてくれるのです。
 
最後に、カップヌードルで有名な日清食品の創業者安藤百福氏は「人類は麺類である」という名言を残しています。その言葉の真意は今になっては誰も伺い知る事はできませんが、私はラーメンの深みと私の本質を見抜いた真言であると思っています。ラーメンを食べるたびに仏教に想いを馳せ、それと同時に己の至らなさを知らされます。何が言いたいかと言いますと、太り気味の私はラーメンを食べ過ぎないようにしたいということです。ラーメンは太りますからね。

枝廣会員おすすめ「極鶏」のラーメン in 京都

執筆者 枝廣慶樹