「備坊録」カテゴリーアーカイブ

備龍会メンバーが日々の思いを順番に綴ります。お題は世界の出来事から日常のささやかな幸せなど幅広く。もちろん仏さまのお話も。

「終わりのないいのち」ウルトラマン

以前、とある研修中、余談として興味深いお話を聞かせて頂いたことがあります。それは「ウルトラマンと浄土真宗」についてネット上に掲載されたある論文の簡略な紹介でした。その論文内容は、ウルトラマンの設定や物語と、浄土真宗という仏教に類似する点が多くあり、

「ウルトラマンには、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の思想がその背景にあるのでは!?」

「円谷英二氏には浄土思想の素養が!?」

といったもので、無論そこまで飛躍するのも問題が出てくるので、講師曰く「決して正しい説とは言えませんが面白いのであくまで余談として紹介します…」と前置きされた上でご紹介くださいました。

というわけで、当コラムも比較部分はあくまで余談としてご一読くだされば幸いです。


さてウルトラマンといえば、言わずと知れた円谷プロによる特撮ヒーローであり、現在でもTVで活躍中のアニメ・コミック・グッズ・ゲームなどで大人気のスーパー変身ヒーローです。この物語の基底にあるものは、怪獣といった敵に対して「♪光の国からぼくらのために♪※1」地球を「救済」しに正義の味方がやってくるというものです。

科学特捜隊のハヤタ隊員が調査飛行中、宇宙から飛来した謎の赤い光(ウルトラマン)と空中で激突し、死亡した正にその時、赤い光に包まれてウルトラマンとして再生したその瞬間、ハヤタ隊員の行為や意志に関係なくウルトラマンの方から一方的に「いのち」が与えられる… その後のハヤタ隊員=ウルトラマンの活躍はご承知の通りですね。

要するに、ウルトラマンによる人類に対する一方的な不思議な肩入れであり、ハヤタ隊員と縁あって「光の国」から来たウルトラマンが、勝手に怪獣や宇宙人と闘って人類を救済してくれるというわけです。

類似点をいくつか…、

≪ウルトラマン≫

①この物語には光の彼方から常に見守り身を賭して救済するという理想が横たわる

②ここでいう「光の国」とは地球から300万光年離れたM78星雲のこと

③ハヤタ隊員が死亡と同時にウルトラマンによりいのちが与えられ、そのまま人類の救済にはしる

※2

≪仏教≫

①仏教に説かれる物語は、苦しみにあえぐ生きとし生けるもの(衆生)を救済するために、仏さまが手を尽くし、そのうえ自らを犠牲にして衆生を救う。

②仏教における阿弥陀如来の西方極楽浄土も「光に満ち満ちた仏国土」といわれ、そこは十万億仏土を越え離れた西方と説かれ、さらには阿弥陀如来も「無量光仏」「無碍光如来」など様々な「光」で表現される  

③浄土真宗で示される所の往生即成仏、つまり「どなたであっても、この世の縁が尽きるとき浄土(光の国)に生まれ、同時に仏としてのいのちをめぐまれて、そのまま娑婆にかえり来て人々を教化(救済)する」

 

他にも「ウルトラサイン」なるものと仏教の「梵字」の酷似※3など、多くの類似点があるようですが、すべては紹介しきれないので興味のある方は文末の参考資料をお開きください。また、「類似」とは「イコール」では無いこともご承知ください。

以上いくつか類似点を挙げてみましたが、何より興味深いのは、そもそも地球人とは何の関係もない「光の国」から来たウルトラマンは、その後も、

ウルトラセブン → 帰ってきたウルトラマン → エース → タロウ → ~中略~ → ギンガ → フロンティア → ギンガS → X → オーブ → ゼロ → ジード → ルーブ・・・

と名を変え、すがたを変え、地球に現れては人類のためにいのちを賭して闘い続けるという所にあります。それは、容姿、形を変えながらも人類を救い続けるヒーローとして2018年現在も活躍を続ける(放映中)すがたです。

お念仏に出遇った人は、この世にあっては個別の名を持ちながらも、いのち尽きて往生するとき既に衆生を放っておけない阿弥陀さまと同等の仏さまというすがたをとってこの娑婆へ巧みに顕現なさいます。このすがたこそ「南無阿弥陀仏」というあらゆる功徳の備わった「名」のすがたです。まさにすがたを変えながらも必ず娑婆に還(かえ)りきて、絶えず我々へ教化のためにご苦労を重ね続けてくださる仏さまです。

 

私にとっての仏さまはどんなすがたなんでしょうか。
阿弥陀さまはお名乗り出た南無阿弥陀仏(お念仏)です。「南無阿弥陀仏」称える時、そこにはすでに自らも仏さまとなって生き続ける亡き祖父母や身近な人をはじめとした先達から、私への縁つなぎが完成されていたのでしょう。先立った人を想うとき、その人と私との関係は現在進行形で続いているのです。亡き人の仏さまとしての仕事はもう始まっていました。

 

過去ではなく現在も生き続ける「終わりのないいのち」、南無阿弥陀仏といいます。

 

筆者 那須 智雄

≪参考資料≫

※1 『ウルトラマンの歌』日本コロンビア
<作詞:東京一 作:宮内圀郎 歌:みすず児童合唱団、コーロ・ステルラ>  

※2 『ウルトラマンに観る親鸞思想-「光の国」と「往相還相」』 レルネット <三宅善信氏>

※3 『マイ仏教』新潮新書 <みうらじゅん氏>

家の誕生日

祖父の残したアルバムに昭和初期の頃からの写真が多く見つかり、それをきっかけに父から初めて聞いた話です。

それは、我が家では、父が子供のころ、家族の誕生日だけでなく、「家の誕生日」があって、家族の時と同様に祝っていたという話です。

これは、昭和初期の自坊の写真です。山門(鐘楼門)の後ろにかやぶき屋根の本堂があり、左には庫裏があります。

しかし、昭和15年に火事に見舞われます。

これがその時の写真です。山門、本堂は無事でしたが、庫裏が焼けて無くなっているのが分かります。

当時は、戦争中ということもあって、材料を揃えるのが困難で、すぐに再建するのは難しいのではないかと考えられました。

しかし、このままにはしておけないと、多くの方からの援助があったそうです。

大きな梁用の木材などは、ご門徒さん方の山から大木を切り出していただき、特に入手困難だった金属類は、伝手を頼って、福岡県の八幡製鉄所まで何日も掛けて往復して、1樽分もの釘を入手してくださいました。

そういった援助があって、翌年には庫裏が再建されたのです。

この写真は、戦後の写真ですが、左に見える2階建ての建物が再建された庫裏です。

ちなみに、山門にあった鐘楼は、昭和19年に国へ供出されたので、この写真では無くなっています。

 戦時中という厳しい状況の中、多くの方々からの援助があったお陰によって、立派な庫裏が再建することができたことへの感謝の気持ちから、私の曾祖母が始めたのが「家の誕生日」だったそうです。

残念なことに、いつの間にかこの「家の誕生日」を祝うことはなくなってしまいましたが、庫裏は改修を繰り返しながら今も建ち続けています。

今まで何も思わずに生活していた建物が、困難な時代に多くの方々からのお力のお陰によって建てることができた、とても有難い建物だったのだと知ることができた話でした。

当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことに気づかされ、感謝を忘れずにより一層大事に生活していきたいです。

筆者 佐藤秀信

ひと夏のいのち

今年の夏、長男が保育所の友達からカブトムシを1匹譲り受け自宅で飼育することになり、急遽かごやエサなど一式の飼育グッズをそろえて我が家に迎えました。

初めてみる本物のカブトムシに興味津々の子どもたち。さっそく長男が「カブちゃん」とかわいらしい名前を付けてくれました。ですが最初は怖くて飼育かごに手を入れること、カブちゃんに触ることもできず、ただじーっと覗くだけ、掃除やエサの入れ替えは私や妻がしていました。しかし徐々に時間が経つにつれ、「僕がやる!」と、カブちゃんの世話をこどもたちが率先してしてくれるようになり、今では保育園から帰ってきたら「カブちゃんただいま!」、寝る前には「カブちゃんおやすみ!」と、家族のように大切に育ててくれています。

先日の夜、いつものようにエサの入れ替えをしていた長男が、「カブちゃんなんか元気ないね」と心配そうな声で話しているのが聞こえてきました。かごの中を覗いてみると、夜になるとかごの中を飛び回っていた最初の頃に比べると、たしかに元気がなく、動きが鈍くなっているように感じました。

カブトムシは、飼育環境や個体性別により多少の違いはあるそうですが、成虫になってから平均で2~3ヵ月の命だそうです。弱ってくると徐々に動きが鈍くなったり、エサを食べなくなる、よくひっくりかえってしまうなどの兆候がでてくるようです。

その晩の長男はなかなか寝付かず、
「カブちゃん大丈夫かなぁ、死んでないかなぁ」
「心配じゃけぇ、ちょっと見てくる」と、寝室からリビングに置いてある飼育かごを何度も確認していました。次の日の朝、起きたら真っ先に飼育かごのなかを覗き込み、「カブちゃん生きとる!」と、満面の笑顔で私に駆け寄ってきました。

5歳の長男がカブちゃんの世話をしながら何を感じどう思っているのかは、親である私にもすべてはわかりませんが、今のカブちゃんとの時間が、彼なりに限りあるいのちの尊さに触れる大切なご縁になっているのではないかと思います。

すべての物事は常に移り変わり、ひと時として同じ状態を保つことはできず、この世に生を受けたからにはいつかは死を迎えなければならない、私たちのいのちも同じです。明日あるかも分らぬいのち、今日という一日を大切に過ごし、多くのお支えのなかで生かされていることに感謝することこそ、いのちの尊さに気づかせていただくことであろうと思います。

このコラムを書かせていただいている8月下旬、今日の夜も子どもたちがカブちゃんにあげる昆虫ゼリーの色で喧嘩しながらではありますが、きっちり世話をしてくれています。たとえひと夏の短いいのちだとしても、精一杯生きるカブちゃんとの時間を子どもたちと一緒に大切に過ごしていきたいと思います。

筆者 米沢 友樹

まずもって、先般の豪雨災害に被災された皆様に衷心より哀悼の意を表します。

豪雨の最中、テレビから伝えられる知らせに恐れを覚え、また日が経ち、少しずつ伝わってくる近在の被害状況、マスメディアを通じて知らされる遠くの甚大な被害の様子にただただ驚くと同時に、お亡くなりになられた方々の知らせに胸を痛めたことです。

 

私の住む町も多くのお宅が床下、床上浸水に見舞われ、水が引いた翌朝から多くの方が屋外に荷物を運び出され、町内をレッカー車がひっきりなしに出入りし、災害ごみの集積所となった町内の公園には畳や建具、家具、家電製品と様々なものが山のように積まれていきました。

まさに非日常の光景です。

そんな中で人々の関わり合いもいつもとは異なる様子となりました。

 

町内に以前は田んぼが広がる地域がありました。近年田んぼを止められる方が増え、代わりに新しい家が立ち並び、小さいながらもある種、新興住宅地のような雰囲気があります。

その辺りはどことなく人と人との関わりが希薄なように感じます。

“子供同士が同級生”とか、“昔からの顔なじみ”など、特別な縁がないとご近所さんとも疎遠で、挨拶しても会釈で済ますようなことも多く、表札を上げていなかったら、お隣さんのお名前もお向かいさんのお名前も存じ上げないが、それが当たり前、平素はそんな様子です。

 

しかし、この度の災害に遭い、みんなが復旧を目指し動き始めますと、多くの方が互いに声を掛け、労い合い、時に協力し合って作業を進めているのです。

「大変でしたね。お宅は大丈夫でしたか」

「うちは床上まで水が来て畳が浸かってしまい、知人に聞くと匂いが取れないからと買い替えをすすめられました。お宅は大丈夫でしたか?」

「うちは床上まで水は来なかったのですが、床下に水が入り込んでしまい、水が溜まったままの状態です。家財道具などに問題はないのですが、どうやらこのままにしておくと床下が菌の温床になるそうで、どうやって抜いたらいいか頭を抱えているのです」

 

すると、中には、

「重たいものを運ぶのなら手伝いましょうか」

「排水ポンプがありますからよろしかったらお貸し致しましょうか」

なんて言葉が飛び交い、

「ありがとう」「助かりました」

という声が聞こえるようになったのです。

 

何故、苗字も知らず、挨拶も会釈で済ませる間柄が、突然にもお互いを気にかけ、助け合い礼を言い合う仲になったのでしょうか。それはお互いの事情を知ったからだと思うのです。

口見舞いを通じ、今まで知り得なかったこと、例えば、

「子供も小さく、親元が遠く、親戚も近所にいなくて…」

と聞けば

「大人の手が足りていないのでは…」

と察しますし、

「水を抜く道具がなくて困っているのか」

と知り、手前に道具があるなら

「お困りならばお貸ししましょうか」

となった。

知らなければ気にも留めないし、手を差し伸べることもなかった。けれども、お互いの事情を知ったから、助け合い、礼を言う間柄になったのでしょう。

私たちはお互いの事を知る事で少しやさしくなれるのかも知れません。

 

7年前、2011年の末、京都の清水寺さんで発表されたその一年を表す漢字は“絆”でありました。

東日本大震災や台風、大雨被害など、大規模な災害を経験する中、望まずとも突然に家族や仲間と死別の別れを迎えられたり、普段は頻繁に連絡をとる事のない縁故の方の安否を気にして連絡をとったり、また平素お付き合いも希薄な者同士が不安な日々を過ごす中、お互いに助け合い、気遣い合う経験を通じて、改めて身近な方々との“絆”の大切さに気付くきっかけとなったと。

 

この度、私自身もその渦中において改めて“絆”の生み出す温もりというものに気付かされたように思います。

 

しかし、辞書を引いてみますと、“絆”という言葉には“人と人との結びつき、支え合い、助け合い”という意図とは異なる意味があることを知りました。

牛や馬などの家畜につないである綱のことも“絆”と言うそうです。牛の鼻に輪をつけて、そこに紐を結び付けて、引っ張って行く、その綱を“絆”と言うのです。転じて、生き物を引っ張ってくれるもの、導いてくれるものという意味なのだそうです。

 

浄土真宗の御本尊は阿弥陀仏です。阿弥陀仏は五劫思惟、兆載永劫のご修行をなされた仏様です。

劫とは古代インドの時間の単位で、極めて長い、途方もない時間を示します。

その時間は阿弥陀仏の“あなたを必ず仏に成らせる”という救いの完全性をあらわすと同時にご苦労をあらわしておられます。

何のご苦労でしょうか。それはこの私を知り抜く為に掛けて下さったご苦労ではないでしょうか。

 

先にも申した通り、私たちはお互いの事を知ることでやさしくなれるように思います。しかし、どれだけ思慮を重ね、配慮しても必ずしも相手の思いに添える訳ではなく、何なら“よかれと思って…”が他人を傷つけてしまうこともあります。

何故なら、“私たちは同じことが起きてもその時その時で味わい方が異なるから”ではないでしょうか。

単純な話、空腹時に食べ物を頂けば嬉しいですが、満腹時に食べ物を頂いても、お気持ちこそ嬉しくても空腹時のようには喜べません。何なら、それがその場で頂かなければならないような品であれば時として迷惑に感じることもあるでしょう。

また、“一人一人、趣味趣向が異なるので、誰もが同じことを喜ぶわけではない”ということも原因でしょう。

甘いものがお好きな方であれば甘いものを頂けば喜ばれますが、苦手な方なら時としては辛いこともある。

残念ながら、私たちがどれだけ苦心しても必ず相手の思いに沿うことができるわけではない、とどのつまりは自分の物差しで相手の気持ちをおもんばかるのが精一杯なのです。

そして、苦しければ苦しいほどに、“誰も私の事を分かってくれない”“誰にも私の事は分かる訳がない”と塞ぎ込んでしまうのが私のように思います。言うならば、“差し出された手すら敵意のように見える”、絆を断ち切ることでしか自己を守れない、そんな時だってあるのです。

そんな私を目当てとされた阿弥陀仏だから、途方もない時間をかけて私を知り抜く必要があったのでしょう。

阿弥陀仏は私の命を問題とされた仏様です。“おもんばかって、結果どうだか分からない”では話にならないのです。

望まぬ出来事も避けて通る事が出来ず、あてにしているものが脆くも崩れるこの世を生きていく上で、どのような事があろうと変わらぬ“あなたを必ず仏に成らせる”という救いを示し、辛く苦しい時、“神も仏もあるものか”とすら思う私をも見捨てることなく、目当てとし、導かんとはたらき続けておられるのが阿弥陀仏です。

 

人と人とのつながり、支え合う“絆”の大切さに気付かされ、また、どのようなことがあっても変わらず私を支え導く“絆”についても考えさせて頂いた事です。

 

皆様は今、どのような“絆”に支えられ、導かれていらっしゃいますか?

筆者 石川 知全

帰ってきてほしい

 

今年の夏は無事に乗り越えられるだろうか?

7月の備坊録の担当、杉原です。

 

今回は、私の同級生のアンガールズ田中のお母さん、田中美枝子さんに、ご自宅で話を聞かせてもらいました。

 

まず、松葉のジュースを頂きました。松葉をミキサーしてサイダーで割ったものです。

味は・・・松の味がしました。血行促進にいいらしく、健康になりそうな味でした・・・

 

杉原

さて、最初、芸人をめざす と聞いてどう思いましたか?

田中母

タクは、広島大学を卒業して就職の内定をもらっていたのに、東京の大学院に行くといい、東京へ行って2年間、音信不通で、送った荷物が帰ってこないので、そこに居るとは思っていましたが、3年目の6月に心配になって東京に行って、東京駅から電話したのが最初。そうしたらそこで、「大学院はウソで、芸人目指してます」って初めて聞かされて・・・ショックよ!ショック!顔面蒼白で涙はでるは、怒るはでパニックです。

杉原
それは、そうですね。広大卒業して、お笑い芸人を目指しますって言われたら、誰でも混乱しますね。家族の反応はどうでしたか?
田中母

お父さんに電話したら連れて帰れ!おばあちゃんは、誰にも言うたらいかんって言うし。タクの兄貴は他人事のようだし。

杉原

田舎だと余計いえないですよね。すぐに噂になりますね。しかしよく許しましたね。

田中母

許すもなにも仕方ないというか、タクが、4月に今の事務所がひろってくれたから、もう少し頑張りたいというので、仕方なく、ひっぱって帰ろうかと思ったけど大きいからね。まあ、あきらめて帰ってくると思って、その時は帰ったけど・・・帰ってからが、とても辛かった。東の空を見ては泣き。まわりのお母さんたちと我が子が何してる?って話になると。うちの子は芸人です。アンガールズです。知らない。ってなるの。そこからテレビに出るまでに2~3年ぐらい、そりゃ辛かった。

杉原

今のようになるとは思いもよらなかったですね。

田中母

そのあと、お笑いコント番組で月に1回ぐらい出るようになってね。

杉原

コント番組がブームになりましたね。そんな中お母さんも良くテレビに出演されますけど、きっかけは?

田中母

それは、バカ息子のためにね。私がでて、1本でも番組が成立すればいいと思って。自分がテレビに出演したいわけではないのよ。

杉原

よく入浴とかされますね。NGはないんですか?

田中母

もう出たくないのよ。

杉原

有名になってくると色々と変わってきますよね?

田中母

今まで通りでいいのよ。「お母さんクルマが当たったから」ってときは、いらないと断りました。軽トラで十分。謙虚に!

杉原

確かに、田舎だといい車乗ってるとか、家が新築したとか噂されてね。良くも悪くも、人気商売ですからね。

芸人だからって、番組がわが子に対してとんでもないことをさせてる、と思うことはないんですか?

田中母

穴に落ちたり泥をかぶったり、最初は、嫌気もしたけど、今は、まあ、仕事だから好きにしてもらえばいいと思う。仕事とわりきっていますね。

杉原

ドッキリの的によくなりますよね。

うちのメンバー(備龍会会員)に聞いたのですが、お笑い番組でお母さんの手作り弁当を酷評されたとか?

田中母

あれは、あのピンクの枠の写真よ。数名の芸人の親子が呼ばれて、どの母親が作ったか解らない状態でゲストが順位をつける番組で、よく覚えてる。

杉原

言いにくいんですが、最下位になられたとか?

田中母

そう!私の弁当がビリになって、タクが怒って、「お母さんが仕事で忙しい中、作ってくれた弁当だ。」「僕はこの弁当を食べて大きくなったんだ。」「うまいよ。お母さん。」って食べだして、なんだかわからないけど涙が出てきて、他のお母さんも泣いて、スタッフもみんな泣き出してね。でも、その辺は放送されなかったかも?バラエティ番組ですしね。

杉原

順位をつけないといけないゲストも辛かったでしょうね。

田中母

あの時は、後にも先にも無いほど泣いた。あんなこと言わなきゃいいのにね。それをうちの子がつべこべと。「クソー」でよかったのにね(笑)

 

杉原

もし、不祥事をおこしたらどうしますか?

田中母

うちに引っ張って帰って百姓させるわ。

杉原

見捨てないんですね。

田中母

もう、ゆるさん。世間から離れたところで、山奥で百姓させるわ(笑)ここは誰も来ないし。その点は準備しとるんよ。

杉原

最後に、この後、どうなってほしいですか?

田中母

よく頑張ったんだから、もういいんじゃないかと思う。本人はまったくやめる気はないけど。
今以上の事を出来そうもないし(笑)はやく帰ってきて、トラクターの使い方をおぼえたりしてほしい(笑)

杉原

そのためには、結婚ですね。

田中母

今度、親が子供に代わってお見合いする番組からオファーがあって・・もう出たくないのよ。

杉原

アンガ田中親子がいないと番組が成立しませんよ。

田中母

ほんとに結婚するならいいんだけどね。

 

 

最近、親子の問題がニュースをにぎわす中、ほっこりしました。

アンガールズ田中卓志の母 田中美枝子さん ありがとうございました。

 

筆者 杉原秀晃


(田中邸の床の間にある謎の像)

備後じゃけぇ~

はじめまして、今月の備坊録を担当させていただきます林と申します。九州は熊本の出身で、結婚を機に三原市で生活をさせていただいております。よろしくお願いいたします。

 

移り住んでようやく一年が過ぎ少しずつ慣れてきましたが、はじめの頃は戸惑いも多かったです。

その一つが方言。備後の言葉で「□□さんが、○○しとっちゃった。」(「□□さんが、○○してた。」の軽い尊敬語。例えば、京都弁でいう「○○してはった。」)と初めて聞いたときは、何かしでかしてしまった(「○○しちゃった。」)のかと思いひとりで焦り、買い物で妻に「たわん!」(備後弁で「とどかない!」)と言われたときは「買わん!」に聞こえ「何しに来てん!」とつっこむ始末。私にとって「タモリ」(瀬戸内海でよく捕れるセトダイというイサキ科の魚を、備後沿岸部ではこう呼ぶそうです。)は魚ではなく「いいとも――っ!!」であります。

 

そんな中、備後の地に住んで感じたことは、何より住みやすいということです。一年を通じ比較的温暖な瀬戸内気候、九州では毎年悩まされる台風の影響もほとんどなく、三原は冬の雪の量も少ないです。(北部の方ごめんなさい…。)また海と山、両方の幸が豊富で美味しいものが多く、近くの山の頂上から眺める瀬戸内の多島美は私のお気に入りです。

※三原、竜王山山頂より東を望む。左奥に見える町が尾道。

 

ところが、日々様々な方々とお話しさせていただく中で、

「うちは備後じゃけぇ~。」

という少し消極的な言葉をしばしば耳にすることがあり、それを聞いての私の印象は、備後は控えめな方が多いのかなというものでした。ところがこの地で生活をする中で、近代の仏教界に大きな影響を及ぼした二人の人物が備後の生まれであったこと、また浄土真宗のお聖教の中で備後の地で著されたものがあるということを知りました。今回はそれらについて少しお話したいと思います。

 

まずは、二人の人物について。

一人目は、三原市八幡町出身の高楠順次郎です。高楠は幼い頃から漢籍(漢文で書かれた中国の書物)に通じ、なんと14歳で小学校の先生になったと言われています。後に、京都本願寺立普通教校(現龍谷大学)を卒業しヨーロッパに留学、イギリスのオックスフォード大学をはじめ、ドイツ・フランス・イタリアの諸大学でインド学など様々な学問を修め、サンスクリット語(古代インドの書き言葉)やチベット語・モンゴル語などを習得したようです。日本へ帰国後は東京大学で教鞭を執り、後に東京外国語学校(現東京外国語大学)校長、東洋大学学長を歴任、本願寺関係の学校の一つである武蔵野大学を創設しています。また、高楠は近代の仏教学研究の基礎を固めた最大の功労者のひとりと評価されていて、中心となって刊行した『大正新修大蔵経』は、現在も宗派や大学・研究機関を問わず漢文で書かれた仏教書を用いる研究者の共通のテキストとされています。おそらく、日本で仏教を研究する人の中で、彼の名を知らない人はいないでしょう。

 

二人目は同じく三原市出身の渡辺哲信です。実は哲信は私の妻の高祖父、つまり“ひいひいおじいさん”です。身内で大変恐縮ですが、是非この機会に皆さんに知っていただきたく書かせていただきました。

※インドへ向かう前の大谷探検隊。一番右が後の大谷光瑞第22代門主、前列左から二人目が渡辺哲信。

 

哲信は広島中学を卒業後、京都文学寮(現龍谷大学)に入学します。その後ロシア等への留学を経て、後の浄土真宗本願寺派第22代大谷光瑞門主が率いる第一次大谷探検隊に参加します。哲信は同じく文学寮出身の堀賢雄と共に、中国新疆省(現新疆ウイグル自治区)にあるホータンやクチャなどの仏教遺跡を中心に調査を行いました。彼らは、パミール高原を越えてタクラマカン砂漠を横断した最初の日本人です。

ちなみに、クチャは私たちが普段お唱えする『仏説阿弥陀経』を漢文に訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)三蔵法師の出身地とされています。

※お勤めで読むことはありませんが、お経本には経題の後に「姚秦三藏法師鳩摩羅什詔譯(後秦の時代、鳩摩羅什三蔵法師が、時の天子の命によって訳しました。)」とあります。

 

彼ら大谷探検隊によってもたらされた資料の一部は、東京国立博物館や龍谷大学大宮図書館に所蔵されています。これらの資料は、発見された地域の歴史研究はもちろんのこと、インドで興り日本へと伝わった仏教がどのような過程を経て今のようなものとなったのか、についての貴重な資料となることでしょう。今後の更なる研究が期待されます。

 

※インド霊鷲山(りょうじゅせん。別名、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)。お釈迦様が『無量寿経』や『法華経』を説かれた山)山頂より見る夕日。実はお経に出てくる霊鷲山がこの山であると特定したのも第一次大谷探検隊です。

 

最後に、ここ備後の地で書かれた浄土真宗のお聖教をいくつかご紹介したいと思います。それは本願寺第三代覚如(かくにょ)上人のお子様、存覚(ぞんかく)上人が書かれた『決智鈔』(けっちしょう)・『法華問答』(ほっけもんどう)二巻・『歩船鈔』(ぶせんしょう)二巻・『報恩記』(ほうおんき)・『選択註解鈔』(せんぢゃくちゅうげしょう)五巻・『至道鈔』(しどうしょう)の六部十二巻です。

存覚上人は、浄土真宗の根本聖典である親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を初めて『六要鈔』という書物で註釈された方であり、後代の真宗僧侶の多くはこの方の書物で親鸞聖人のみ教えを学びました。本願寺第八代蓮如上人もそのお一人で、常にご覧になっていたそうです。

その存覚上人は49歳頃(暦応元年、1338年)、備後に滞在されていて先ほどの書物を著されました。その内容は、当時行われた他宗の方々との議論をきっかけにお念仏の教えについて書かれたものや、仏教各宗の概説、法然聖人の『選択本願念仏集』の解説など様々です。これらの書物から存覚上人がいかに広く仏教に通じておられ、お念仏の教えを伝えていくために尽力されたかがわかります。

 

なお、存覚上人が著されたお聖教の本文や解説は以下の書物に収録されています。

浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室〈聖典編纂担当〉

『浄土真宗聖典全書(四)相伝篇上』 本願寺出版社 2016年

 

以上、今回は備後出身の二人の人物と、存覚上人がこの地で著されたお聖教を非常に簡単ですがご紹介させていただきました。もちろんこれらだけでなく、備後の地は多くの僧侶・仏教学者を育み、その方々のお陰で現代の私たちが知ることができたこと、聞くことができたお話もたくさんあります。先人のご苦労には、ただただ感謝するばかりです。

 

正直いいますと、これまで九州出身の私にとって、備後という土地は関西方面への通り道であり「広島の次は?」と聞かれたら迷わず「岡山」と答えていました。ところがこの一年で、その間に真宗だけでなく仏教全体の歴史の中で大変大きな役割を果たしてきた土地があることを知りました。備後に移り住んで一年の私は、まだまだ知らないことだらけですが、これからもっとこの地の歴史・自然・人物などについて知り、その魅力にふれていきたいと思います。

 

これからは…

 

備後じゃけぇ~f^_^;)

 

いえいえ!!

 

備後じゃけぇ~~!!\(^O^)/!!

 

筆者 林 龍樹

永遠の少年

言わずと知れたカンフーアクションのヒーローであるジャッキーチェン。数々の映画やドラマに出演し、優れたアクションシーンやユニークでコミカルな演技で老若男女を問わず楽しませてきた俳優の1人でしょう。
私が小さい頃はテレビ映画が盛り上がっていたこともあり、繰り返し放送されていたジャッキー映画に小さいながらお茶の間で笑っていたものです。

今回はそんな彼の熱烈なファンボーイである私が彼の魅了でもある小話を一つ紹介させてもらおうかと思います。

ジャッキーチェンといえば慈善活動にとても熱心なことでも知られていますが、なぜこれほどまで真剣に慈善活動に取り組むようになったのか?
彼は20代始めに急に俳優として売れはじめ、買い物、飲酒、女性遊びにうつつを抜かすようになりました。女性に至っては花に群がる蝶のように振り解こうとしても振り解けないほどだったそうで、丁度この頃に慈善活動に協力してくれと言ってくる人がいて、「香港の環境児童医院に、あなたに会いたいという子どもがたくさんいる」と何度も頼まれていました。

しかしジャッキーは毎晩のように酒を飲み、朝はとても起きられないと断っていましたがあまりの頼みに折れて、一度くらいならと思って児童医院を訪問してみたところ、その様子にとても衝撃を受けたそうです。
それは彼の自伝である『永遠の少年』にこんなことが書いてありました。

「子どもたちの様子をみるととても悲しくなった。部屋に入るとすぐに僕を囲んでくる。強い薬の匂いがした。子どもたちは『大好き。ほんとに大好き。触っていいですか』などと言っている。胸を打たれる思いがした。」病院のスタッフの話しを聞くと穴があったら入りたい気分になった。

と自身の自伝に綴ってありました。それから彼はやましさから解放された気がし、救われたような気持ちになり、慈善活動を行いはじめるようになったと言います。

彼は今までの自分に恥ずかしさを覚え天狗になった鼻っぱしを折られたことでしょう。この自伝を読んだ私は当時、ショボショボに泣いて、ますますジャッキーが好きになりました。

親鸞さまは自分中心、我が都合の私たちを凡夫とおっしゃっております。
凡夫である私が日々の暮らしの中で天狗になったときは、親鸞さまはもちろんのこと、このジャッキーチェンの話も思い出して私の目指すユーモア溢れ、子どもたちに愛されるようなステキな僧侶男子になれるよう努めていきたいと思うばかりでございます。

著者 宮 翔

仏教史上、初めてのお方!恵信尼公

この度4月13日(金)、14日(土)と恵信尼公750回忌法要が本願寺にてご修行されました。恵信尼様はそう、何を隠そう親鸞聖人のご内室であります。苦難多き人生を、親鸞聖人と共に、生き抜かれたお方です。もっともっと注目されていいのではないかと個人的には思っています。私も750回忌のご勝縁にお参りしたかったのですが、残念ながら予定が合わずお参りさせて頂くことはかないませんでしたので、せめてコラムで恵信尼様に想いを馳せてみたいと思います。

親鸞聖人は歴史上初めて、僧侶として公に妻帯をされた方であります。そう考えますと恵信尼様は日本で、いや、世界で?初めて僧侶の妻になられたお方であります。住職の妻を一般的に坊守と言いますが、浄土真宗のお寺は結構住職さん以上にこの坊守さんによって成り立っている現状をよく目にします。その源流が恵信尼様ではなかったでしょうか!もっと恵信尼様について勉強しなければならない!と思い、本棚に埋まっていた「恵信尼公の生涯(著:大谷嬉子)」をもう一度読み直すことにしました。

 一部ご紹介です。
「恵信尼公は残した手紙の文字が達者であり、当時の地方女性として教養が高い。長年日記をつけていた。晩年八人の使用人がいた。老いて死期の近いことを感じたころ五輪の石塔を自分で建てようとしたことなどから、やはり相当な家庭に育った女性と見てよいのではないかと思う。・・・恵信尼公が、越後に生まれ育った女性で、流罪になって越後に来た親鸞聖人と、はじめて結婚したとすると、そのときはすでに二十八、九才、当時の習慣から見ると、ずいぶん晩婚になるわけである。」
等々、何となくしか想像していなかった恵信尼様の実像が浮かび上がってきます。

▲昭和32年 恵信尼寿塔と認定

いつご結婚されたのかも色々説があるようですが、私は越後で出会い、結婚された説が素敵だなと思っています。聖人が流罪になって越後に行かれてから、寂しく、辛い、厳しい生活を送られていた時にであわれたのではないか。その見知らぬ越後の地で初めて聖人とお念仏喜ばれた方が恵信尼様だったのではないか、そして赦免された頃ご結婚されていかれたのではないか。そうだったらすごいドラマチックで、ドキドキするなぁと想像して楽しんでいます。

恵信尼様と親鸞聖人の間には5人乃至6人のお子さまがいらっしゃったようであります。関東での生活はお子さま達を育てながら、また聖人の伝道活動を支えながらのお忙しくも充実した生活を送られたのではないでしょうか。
関東から京都、そして晩年は越後に戻られ、聖人と離れ離れになった恵信尼様でありますが、80歳を超えても尚、お孫さんのお世話や、土地や使用人の事など精力的に働かれていたようです。あまり足腰をさすったりすることもなく動き回っていらっしゃったようであります。

そのように伺っていきますと、かなりたくましく、愛情にみちあふれた女性だったのではないかと想像致します。聖人からいうと9歳年下の恵信尼様ですが、一番の理解者であり、同行であり、尊敬する人であり、色々と恵信尼様にご相談もなさっていた事でしょうし、人には見せられない弱い部分も見せていかれたのではないかと思います。

法然様はお書物の中で、

〝現世をすぐべき様は、念佛の申されんようにすぐべし。念佛のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。〟『和語燈録』

と述べられています。妻帯するのかひじりでいるのか、一人でいるのか、二人でいるのか、家に住むのか、旅をするのか、迷った時はお念仏が出やすい生活をなさいと教えて下さったのですね。聖人にとっては恵信尼様と夫婦になって一緒に暮らした方が、ひじりで生きていくより、一人で生きていくより、お念仏喜んで生きていけると味わっていかれたのではないでしょうか。

お釈迦様以降1500年間ずっと出家仏教であり、僧侶が結婚する事はありませんでした。ある意味では仏教は出家できる一部の人のものだったわけです。しかし、それに疑問を投げられたのが法然様でありました。

「仏教はあらゆる者の生きていく支えになりえるんだよ、あらゆる者が喜んでいけるのがお釈迦様が説かれた仏教なのだよ。出家せずとも、全ての者がお念仏一つで救われていくのだよ」

 

と教えて下さいました。そして、その教えを身をもって体現下さったのが親鸞聖人でありました。誤解を恐れず、かっこいい言い方をしてみますと、あらゆる者が救われていく道を明らかにされるため、妻子と離れられたのがお釈迦様です。そして1500年経ち、あらゆる者が救われていく道を再び明らかにされるため、妻子と共に生きられたのが親鸞聖人であります!!!

そんな事を思いながら、「恵信尼公の生涯」を読み終えました。この本、内容も素晴らしいのですが、何より著者である大谷嬉子様がいかに恵信尼様の事を慕われておられたかという事がひしひしと伝わってきました。一つ一つの資料や御旧跡を大切に、そして細かく調べられ、そこから恵信尼様の実像にせまっていかれます。そこには力強くも美しく、親鸞聖人を慕い、子や孫を愛し、お念仏に支えられて生きている750年前の恵信尼様のお姿がありました。

今年は恵信尼様についての勉強を深めていきたいです、あっ、同時に自分の妻への感謝もね(+o+)

 

筆者 伊川大慶

本願寺出版社「恵信尼公の生涯」

 

「カルピスは○○の味」

老若男女問わず人気の「カルピス」、私の娘も飲むと喜ぶ「カルピス」、実は発明者が浄土真宗の僧侶の方だったことはご存知でしょうか。今回はそんな「カルピス」の発明にまつわる物語をご紹介させてもらいます。

生みの親は誰?     

「カルピス」の生みの親・三島海雲(かいうん)は、1878(明治11)年7月2日、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。西本願寺文学寮で学んだ後、英語の教師になった海雲は、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入しましたが、入学後間もなく、大学から中国へ渡ることをすすめられ、1902(明治35)年、当時日本の青少年の憧れの地であった中国大陸に無限の可能性と夢を求めて渡っていきました。

「カルピス」の原点との出会い

中国で教師をしていた後、日華洋行という雑貨商の事業を行なうことになりました。あるとき、仕事で北京から内モンゴルに入った海雲は、そこで「カルピス」の原点である酸乳と出会いました。当地の遊牧民たちが毎日のように飲んでいた酸っぱい乳をすすめられるまま口にしたところ、そのおいしさと健康効果に驚きを受けました。長旅ですっかり弱っていた胃腸の調子が整い、体も頭もすっきりしてきたのです。その酸っぱい乳が乳酸菌で発酵させた“酸乳”だったのです。酸乳を日常的に摂取しているモンゴル民族のたくましさに驚き、自らも酸乳の健康への効果を体験し、その力を実感しました。

「カルピス」の発売

「醍醐素」(乳酸菌で発酵させたクリームを商品化した「カルピス」の前段階の商品)を改良したおいしく体に良い飲み物として開発したのが、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」でした。海雲は、「カルピス」の本質は、“おいしいこと”、“滋養になること”、“安心感のあること”、“経済的であること”の4つだと言っています。1919(大正8)年7月7日の発売以降、「カルピス」は時代を経て、やがて“国民飲料”として愛される商品へと成長しました。その一方で、海雲は、その生涯をかけて『国利民福』への思いをつらぬきました。『国利民福』-国家の利益となり、人々の幸福につながる事業を成すこと。それは、海雲の生涯をかけた目標でした。

「カルピス」の語源

脱脂乳を乳酸菌で発酵させた飲料「醍醐素」に砂糖を加えて2日ほど放置した結果生まれたのが「カルピス」の元で、日本の食事に不足していた「カルシウム」を混ぜて「カルピス」が完成したことが名前の由来となっています。ここから「カルシウム」の”カル”、サンスクリット語(古代インドの言語)の「サルピス」から”ピス”をとって「カルピス」と命名されました。「サルピス」は仏教で五味と呼ばれる乳・酪・生酥・熟酥・醍醐の中の熟酥(じゅくそ)を指します。カルピスの元になっている醍醐は五味で最高位にあたりサンスクリット語で「サルピルマンダ」と呼ぶため「サルピル」や「カルピル」といった案もあったが、音声学の権威・山田耕筰に相談し響きの良さを重視して醍醐の次位である「サルピス」からとって「カルピス」となったそうです。

「カルピス」誕生の裏にこのような物語があることに驚かされると同時に、遊牧民の優しさと青年僧侶の偶然の出会いが今も多くの方々に親しまれているあの味を生んだことに不思議なご縁を感じずにはいられません。初恋の味だけではなく、ご縁の味でもあったと味わわせてもらいました。これからの3・4月は出会いと別れの多い時期ですね、今日は「カルピス」で乾杯!

筆者 武田大俊

 

出典:アサヒ飲料(株)カルピス事業ブランドサイト
http://www.calpis.info/story/developer//
(物語・語源の部分は上記サイトより抄出し引用させてもらいました。転用を御快諾下さいましたアサヒグループWebSite事務局の皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。)

御恩報謝につとめます

先日、小学生の娘が、学校から給食だよりをもらってきました。
それを見ると、学校給食の歴史について書いてありました。

給食の始まりは、1889年(明治22年)山形県鶴岡町(現:鶴岡市)の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に無料で実施されたのが、学校給食の始まりとのことです。
戦後は食料不足で、外国からの支援物資を使った給食が提供され、みそ汁・脱脂粉乳などが出されました。
日本が豊かになるにつれ、脱脂粉乳が牛乳に切り替わり、パンやソフト麺が登場し、現在では、米飯給食が進み、行事食・郷土料理・地場産物を取り入れた給食になっているようです。

机の上に給食が並び、給食当番さんが
「手を合わせてください、いただきます」
全員で声を合わせて
「いただきます」
と、給食を食べ始めます。

しかし、ある小学校では
「うちの子どもは給食費を払っているのに、なぜ『いただきます』と言わなくてはならないのか」
というクレームがあったそうです。

このような考え方はわずかだと思いますが、私たちが食べるという行為は、牛や豚や鶏や魚などの動物や、米や野菜などの植物などの「いのち」をいただく行為です。
「あなたのいのちを私のいのちにさせていただきます」
と言うことです。
また、この給食になるまでに生産者の人、運ぶ人、調理員さん、栄養士さん、給食当番さんなど、用意してくれた人に対して感謝の気持ちを表した言葉が、「ごちそうさま」なのです。

私の家では、食事の際に家族一人ひとりが「御恩」を喜べるように本願寺派の「食事の言葉」を言うように心がけています。

本願寺「食事のことば」解説

たくさんの人が関わって、生かされていることに気づき、感謝の気持ちを体で表すことが大切ではないでしょうか。

筆者 川上浩照