備龍会 のすべての投稿

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BRK63

まなし
ちなし
みなし
どうも、矢追です

この度、HP担当の先輩より
ご依頼受けまして
私でいいのかなと思いつつ
頑張らせていただきます

さて 巷では
AKBの総選挙なんてのがありまして
一部盛り上がったようですが
備後の地にもあるんです

「BRK」

そしてその総会が
6.19に行われるということで
潜入したことを
レポートしていきます

(開始5分前:嵐の前の静けさ)

昨年とは違い
緊迫した雰囲気で
始まった総会

それもそのはず

今年は2年に1度の
先発総選挙(役員改選)の年

会員一同
今期のセンター(会長)は
誰だろうかと
わくわくピリピリしております

私あまりの緊張に手が震えたのか
以下写真が基本的にブレブレです
何卒ご容赦ください

ここで
現「仏6」(役員執行部)の
お写真が手に入りましたので
振り返ってみます

(会長 大淵英範氏)

笑顔の素敵な
優しい先輩
コメント:「にやけてるけど、大丈夫?」

(研修部長 河村祐昭氏)

包容力のある
優しい先輩
コメント:「写さんとってよ~」

(交流活動推進部長 山下瑞円氏)

突破力のある
優しい先輩
コメント:「アップしたら2000アクセスは増えるで」

(広報部長 田坂英尊氏)

企画力のある
優しい先輩
コメント:「まだまだやれます」

(事務局長 伊川大慶氏)

なんでもできる
マルチなお方様
コメント:「何?何ですか?」

(会計 島津慧氏)

interestingな
お方様
コメント:「お金が好きになりました」

訳:「会計処理をするなかで、確実に計算することの大切さを実感しました」


2年間
お世話していただきまして
大変に
ありがとうございました

思い返せば今期も
「やさしく学ぶ浄土真宗」の立ち上げ
熊本震災支援ほか
さまざまなことを
企画なされました

私、正直
「社会のために尽くします」
とかいいながら

1人じゃ
な~んにも行動しない
質でして

そう考えると
尻をたたいてくれる
皆で一緒にやろうと言ってくれる
BRK63(備龍会会員63名)

とても
ありがたく
感じております

 


 

そうこう考えているうちに
新センター(会長)を
選ぶ段に
入ったようです

まず
立候補は…

ナシッ!!

ということで
選ぶのは
先輩方の判断に
委ねられました

(ものものしく別室へ移動される先輩方)

 


「次のセンターは誰かな~? 」

「俺だったらどうしよう?」


様々な思いを抱きつつ
発表を待ちます

そしてっ

ついにっ

(新センター就任に湧き上がるBRKメンバー)

心の中での盛り上がりはこんな感じですが

本当はこっちです

(満場一致で迎える画)

 

新センターは・・・

 

(新会長 河村祐昭氏)

ということに
相成りました

他、執行部の
新メンバーは
後日発表となるようです

 

 

最後に
話は変わりますが
私以前、BRKの
創始者のお一方に
お話伺うことがありまして

Q:「BRKとは?」

A:「横の繋がりよぉ」


一言だけ
いただきました

私てっきり
「何かを成すこと」だとか
思っておりましたので

目が覚めるような
肩の荷が降りるような
思いでありました

年齢や役職
縦の関係も
もちろんありますが

それも
横の線引っ張ったなかの
縦なんだなと

加えて
思うたような
ことでございます

私も
末尾について
頑張らせていただきますので

新たなる2年
また
よろしくお願い致します

 

 

B:びしっとした

R:龍が如しの

K:肩を並べるいい仲間

お粗末さまでしたっ

 

筆者 矢追貴祥

縁側よりの使者

僧侶はお参りの時、何故「玄関」ではなく「縁側」から上がるか、ご存知ですか?

そうじゃない所もあるでしょうが、わたしの在所やその近隣では、お参りはほぼ縁側から上がらせて頂きます。

これは
世間の御用(家の方への御用)は玄関から。
仏様の御用はお仏間に近い縁側から。
という心のようです。

今日はそんなお参り先の縁側に纏わるお話です。

 

その日はお昼まで4軒のお参り。
お話が過ぎて30分遅れで到着した2軒目のお宅。
縁側の戸は開けてあり、お仏壇にはおひかりが灯してあります。

「ごめんください、遅くなりました」

声を掛け、縁側より上がり、先ずお仏壇へ。

「なんまんだぶなんまんだぶ…」

振り返ったところに

襖を開けご主人が出て来られました。

「待ちよったよ」

「いや〜すみません。遅くなりました。」

「ええよ、ゆっくりしんさい。」

「いやいや、すぐに」

衣を着替えてお仏壇へ。

手を合わせたところで、気になる物音。
仏壇の上「無量寿」と書かれた横長の額の裏で何やら「カサカサ、バタバタバタバタ」。

振り返ってご主人とアイコンタクト。

「なんかおるね」「おりますね」

 

 

立ち上がり額縁の裏を覗き込む。

そこには一羽の小鳥!

「しかしまた何でこんなとこに?」

「住職さんがなかなか来てんないけぇ代わりにお参りしてくれとったんよ。」

 

一本取られました。

 

ほんとは縁側から入り込んで出れなくなり、羽休めをしていたところ人の声、慌てて「バタバタ」といったところでしょう。

「わ〜何んかね?スズメじゃなさそうなね」
協議の結果ヒヨス(ヒヨドリ)ということになりました。

ご主人は奥から持って来た椅子に登り、ヒヨスを優しく手の中に収めて縁側からそっと逃がしてくださいました。

 

よかったよかった。

 

さぁ、お勤めはじめましょう。

…ところが

飛び立ったはずのヒヨスが再びお縁に戻って来たのです。

何の御用か、お礼を言いにでも来たのか、縁側をチュンチュン歩いたり、仏間を飛び回ったりと今度はやりたい放題です。

事態はさらに思わぬ方向へ。

襖の影に光る目2つ、

身を低く構えた猫がこちらの様子を窺っています。

「嫌な予感」

と思ったその時、素早い身のこなしで、ヒヨス目掛け矢の様に飛び込んで来ました。

両者の中継地点にいた私、「ウワッ!」とおもわず声を上げ、過剰なまでに身をかわします。

猫は床の間の花瓶を「ガシャーン!となぎ倒し、ヒヨスを見事その口に咥えてしまったのです。

(うわ〜えらいもんをみてしもたぁ。)

心の中で2、3度呟いたでしょうか。

 

しばらくして猫は口からヒヨスを離し、毛糸の玉とジャレるあの塩梅で小突きはじめます。

「こりゃお前は!かわいそうな事をしちゃるな!」

ご主人にそう言われ、猫は逃げる様に何処かへ行ってしまいました。

一方、ご主人の手に優しく救い出されたヒヨスはというと、気絶していたのか、またはそのフリだったのか。

手の中で揺すられ、しばらくすると正気をとりもどしました。

「よかった生きとった。」

「よかったよかった。」

手の中のヒヨスに向け

「ええか、もう戻って来(く)なよ〜」

そぉ言って、ふたたび縁側から大空へと放たれました。

今度は縁側の戸はピシャリと閉められました。

その日その後のお参りはどうしようもなく遅れて、お詫びと合わせ「実はこんなことが」と付け加えて回らせていただきました。

 

しかし、改めて動物の本能とは凄いものです。
猫はお腹を空かしていた訳ではありません。

鳥が畳の上を歩いている。

この状況にすぐさま反応し飛びかかっただけです。

本能は習わなくとも、ちゃんと身に備わっているもの。ということでしょうか。

ふと人間の場合はどうなんだろう。と思います。

さすがに口で獲物を捕らえる事はないかもしれません。

しかしこの口もカッとなれば瞬時に人を攻撃しますし、もっと言えば手も出します。
それ以上のことだってやり兼ねません。
厄介なことにその言い訳や正当化もします。
私たちにも習わなくても、練習しなくてもちゃんと身に備えているものがあります。

難儀なものです。

 

仏さまに御礼を申しながら
仏さまとはほど遠い私。
法の中で私に出遇う。
教えて頂いたお参り先のご縁でした。

小鳥と猫は仏さまのおつかい。

筆者 藤田 徹信

 

“お聴聞(ちょうもん)のすすめ”~阿弥陀様に彩られた日常生活~

この世界には2種類の人間しかいません。それは阿弥陀様という仏様に関心がある方とない方です。そして多くの方が阿弥陀様に関心がありません。なぜかというと、自らの日常生活と接点がないからです。

阿弥陀様という仏様のお話を聞くことを、お聴聞(ちょうもん)といいます。浄土真宗ではこのお聴聞をとても大切に致します。ですので僧侶である私はお聴聞をすすめます。けれども以前あるご門徒の方から「阿弥陀様の話は日常生活とあまりにもかけ離れた話だから、阿弥陀様の話よりも防災の話や健康の話のようなもっと日常の生活に役立つ話を聞きたい。」と言われた事があります。また別の方から「世間的に有名な方をお招きして、色々お話を聞かせてもらいたい」と言われた事もあります。やはり皆さん仏様のお話よりも、そういったお話の方が関心がおありなのかもしれません。僧侶としては寂しい事ですが(苦笑)

確かに阿弥陀様のお話は一見日常生活とはかけ離れた話のように聞こえるかもしれません。けれども不思議な事に最初のうちはよく分からなくても阿弥陀様のお話を聞いていると、次第に私の日常生活に阿弥陀様が現れ出てくださるようになるのです。別の表現をするならば私の日常生活が「阿弥陀様に彩られた日常生活」へと変化していくのです。

お経には、「阿弥陀様という仏様は私のためにとても綺麗な光り輝く世界であるお浄土という世界を建立して下さった」と説かれてあります。最初のうちはそんなことを聞いても「だからどうした」「ばかじゃなかろうか」ぐらいにしか思いません。けれどもその事をずっと聞いているとその事が私の生活の中にひょこっと顔を出してくるのです。

お寺の境内で草むしりをしていた時のことです。ただただ、「しんどいなぁ」「めんどくさいなぁ」と思いながら草むしりをしていたのですが、そのときふと「阿弥陀様もこうやってしんどい思いをしながら、私のために綺麗な光り輝くお浄土を建立してくださったのかなぁ」と思えてきて、なんだか有難くなったことがあります。本当に不思議なことです。

お寺の境内を掃除する事と、お浄土を建立する事では全くスケールの違う話であります。しかしながら自分が掃除をすることを通して、「私が今感じているしんどさとは比べ物にならないぐらいのしんどい思いをして、私のためにとても綺麗で光り輝く世界であるお浄土を建立してくださったのか」と思えてくると、掃除をする事はしんどいことではあるけれども、そのしんどさの中に有難さを感じるのです。

また、お経には「阿弥陀様は元々ある国の王様で在られたけれども、私のために王様の地位や名声や権力を全て捨てて出家なさってご修行されて仏様になられた」と説かれてあります。最初のうちはそんなことを聞いても「だからどうした」「ばかじゃなかろうか」ぐらいにしか思いません。けれどもその事をずっと聞いているとふとした時に私の生活の中にその事がひょこっと顔を出してくるのです。

つい先日サウジアラビアのサルマン国王様が日本にお越しになられ、大きなニュースとなりました。報道によればサルマン国王様は1千人を超える王族の方や企業幹部の方を伴い来日されたようです。そのため日本へは40機の飛行機で来られ、また国内移動用に高級車が400台以上用意され、さらには東京の高級ホテルを1200室以上抑えられたそうです。さすが王様です。スケールが違いすぎます(笑)私もニュースを観ていたら、たくさんの報道陣が待ち構える中、王様専用機で来日された国王様を皇太子さまがお出迎えに上がられているシーンが流れていました。

そんなシーンを観ながら「王様ってすげーな!」と率直に感じましたが、ふと「阿弥陀様も元々王様だったって事は、こんな感じだったのか。でも私一人のためにこれを全部捨てて出家なさったのか!!」と思えてきて、なんとももったいない思いがしたのです。本当に不思議なことです。

サルマン国王様は経済などの話し合いのために来日されたのだと思いますが、私には「あなたのために阿弥陀様はこれだけの王様の権力を投げ捨てたのだぞ。王様としての地位や権力や財力よりもなによりもあなた一人が大切だと仰る仏様なのだぞ」という事をテレビを通して伝えるために来日してくださったように思え、なんとも有難く思えたのでありました。

本当に不思議なことでありますが、初めは私の日常生活とはかけ離れ何の意味もないと思っていたはずの阿弥陀様が、お聴聞をしているといつの間にか私の日常生活のいたるところにあらわれでてくださって私の日常生活は「阿弥陀様に彩られた日常生活」に変わっていくのです。この「阿弥陀様に彩られた日常生活」は「阿弥陀様をいたるところで喜ぶことができる日常生活」なのです。そしてそのような生活を送ることができる人生を歩めるのは誠に有難いことであります。

誰しも生きているといろんなご縁に出会っていかなければなりません。辛い事にも、悲しい事にもたくさん出会っていかなければならないかもしれません。けれどもどのようなご縁であってもその事を通して仏様を仰いでいくことができるならば、全て尊いご縁だったなぁと乗り越えていくことができるのかもしれません。

防災のお話や、健康のお話、また著名な方のサクセスストーリーを聞く事も有意義な事であり大切な事だと思います。けれどもお聴聞をすることもなかなかいいもんです。一つ一つの事柄が変わって見えてきます。世界が変わります。この世界は私のためにご苦労して下さった仏様のお慈悲で満ち溢れています。すごいです。やばいです。まじで。

お聴聞おすすめです。

 

筆者 枝廣 大智

第1回「やさしく学ぶ浄土真宗」レポート

〝浄土真宗のみ教えを分かりやすく学べる場がもっともっと増えてほしい〟

そんな思いから立ち上がった企画、「やさしく学ぶ浄土真宗」の第1回が3月2日に福山市市民参画センターで開催されました。

「参加者があるんだろうか?」

そんな主催側の心配も他所に、予想を大きく上回る参加人数で会場は満席となりました。

講題は「生死(の迷い)を超える」です。

玉木先生はまずお釈迦様のご誕生から味わっていかれました。
お釈迦様は誕生後すぐに7歩歩まられたとお聞かせいただいておりますが、なぜ6歩でなく8歩でもなく7歩だったのか?
そこに「六道輪廻」という迷いの状態をお示しになられます。

①地獄・・・苦しみのきわまった世界。
②餓鬼・・・飢餓に悩まされる世界。
③畜生・・・人に養われて生きているもの。
④修羅・・・絶えず対立し闘争するもの。
⑤人
⑥天・・・人界より素晴らしい世界で、衆生が受ける最高の生存。

仏教ではこれらすべては迷いの悪い状態だと考えます。玉木先生はこれらの世界を私たちの日常での出来事に重ねて例えていかれ、

「人として生かさせていただいている私たちですが、同時に六道の状態にいるともいえるでしょう」

とお示しくださいました。お釈迦様の7歩の意味は、その六道を超えていく7の道と考えていく、仏教は六道を超える教えなんだということを最初に聞かせていただきました。

お話しの中にはユーモアを取り入れられて、参加者は興味をそそられます。

例えば先生がご用意くださった資料の中で、「腹」という字が横に寝てます。

玉木先生「このように日頃から心がけてます!」

「なんだろう?」と参加者が顔を見合わせる中、

玉木先生腹を立てず!ということです」

とご解説をいただくと会場の参加者も思わずニンマリ♪
しかし腹が立ってしまうのが私たちで、それも煩悩という苦しみの姿なんですね。

開催が3月2日ということもあり、ひな祭りのイラストを付けられているところも和みます。

他にも掲示伝道におススメの言葉をご紹介してくださったり、終始興味深く参加者を飽きさせない色々な工夫が施されていました。

その後も、六道という悪い状態・迷いの中にある私たちの姿、そしてその私を、親が子を心配するように、心配で心配で見ておられる阿弥陀様のお心を丁寧に丁寧にお話しくださいました。

先生には本当にやさしく優しく易しく語っていただきました。次の講義が待ち遠しいです♪

次回、第2回は5月25日(木)となっております。
どうぞ皆さま有縁の方々お誘い合わせのうえ、共々に親鸞聖人の浄土真宗について、やさしく学ばせていただきましょう!

脳のクセがすごい!

最近、脳科学者である池谷裕二氏の著作『自分では気づかない、ココロの盲点【完全版】~本当の自分を知る練習問題80』を読みました。

私と同郷(岡山県井原市芳井町)のお笑いコンビ千鳥のノブのツッコミに「クセがすごい!」というのがありますが、この本は私たちが知らず知らずのうちに持っている脳のクセを、クイズ形式で解説したものです。この脳のクセは「認知バイアス」と呼ばれ、無意識のうちに勘違いや、判断ミスを引き起こします。その本には私たちが日ごろ気づかない80もの脳のクセが紹介されていました。

私が特にこのクセすごいな、深いなと思ったのは、こういう問題でした。


ネズミを飼育する時に通常は餌を皿に入れ好きな時に食べられる状態にしています。

しかし、レバーを押すと餌が出てくる仕掛けに変えても、ネズミはすぐに学習して上手にレバーを押して、餌を食べるようになるそうです。

そこで、一つは皿に入った餌、もう一つはレバーを押して出る餌、どちらも同じ餌で用意します。さて、どちらの餌を選ぶネズミが多いでしょうか?

①    皿に入った餌

②    レバーを押して出る餌


(娘に実験の図を描いてもらいました)


 

私は当然①かと思っていましたが、なんと答えは②「レバーを押して出る餌」だったのです。

不思議なことに、皿から餌を自由に食べられるにも関わらず、わざわざレバーを押すのです。

しかもこれは、ネズミだけではないのです。イヌ・サル・トリ・サカナに至るまで動物界にほぼ共通して見られる現象らしいです。なんと人間もだそうです。同様の実験を、就学前の幼児に対して行うとほぼ100%の確率でレバーを押し、大学生でも5割は押すというのです!目の前にあるにも関わらず!

これは何を意味しているのかというと、この結果は「労働の価値」に結びつくというのです。つまり、苦労せずに得られる皿の餌よりも、労働をして得る餌のほうが価値が高いということをあらわすのです。

始めから得られた贅沢三昧、ゆうゆう自適な生活より、コツコツと地道に働いて得ていく小さな幸せの積み重ねこそ、充実した幸せと感じるといえるのでしょう。

確かに、単純にお金が降ってきて大金持ちになって働かずにすむ幸せを私たちは望みがちですが、本当はそれはなかなか納得いかないのかもしれません。むしろ、そこに「今まで頑張ってきた行いの結果だ」とか、「日ごろの心根が良かったからな」など、後付けででも、それが獲られた原因を自分の中に作り出して、自分で納得していくのが私たちの有様なのかもしれません。

「働かざる者食うべからず」という諺がありますが、これは人間を含めた動物自体が、本来その脳に備えた根深い悩のクセだったようです。

これはネズミをばかにすることはできませんね。私もそうです。ご褒美という成果を求めること自体に幸せを感じていて、日々「努力をすれば、手に入る」と期待せずにはおられないところがあるのでしょう。

逆に「ネズミの目の前にある皿に入った餌」のように、今現在自分にすでに届けられてあるもの、向けられているもの、与えられているものに目がいきにくいということもあるのかもしれません。

あなたはどんな脳のクセを持っていますか?皆さん、自分が行動していると思っていたら、実は脳のクセが私をそうさせているのかもしれませんよ。

仏さまのお話を聞くということは、本当の自分に出会うこと、と聞かせていただいたことがあります。備龍会では「やさしく学ぶ浄土真宗」という仏教入門講座を開いています。

自分では知ることができない自分のまことの姿を、脳のクセも含め私の丸ごとを見通された仏さまのお心に聞いていくことが大切なのです。皆さんもご一緒に聞いていきませんか?


(おまけ)
なんと餌の実験で、これまで調べられた中で唯一、皿の餌をそのまま食べた動物がいるそうです。
それは飼いネコだそうです!

飼いネコのみ、徹底的な現実主義なのか、レバー押しに精を出すことはありません。

ただひたすらに餌を食す。格好良いような。単に食いしんぼうなのでは。それはそれで問題のような…。

筆者 佐藤 知水

 

『御絵伝解説~親鸞聖人九十年の御生涯』

先般2月13日に備龍会主催の仏教教養講座が開かれました。

今年も昨年に引き続き、大阪の宮部誓雅先生にお越しいただき、親鸞聖人九十年の御生涯が描かれた『御絵伝』を、プロジェクターを用いて分かりやすく解説していただきました。

昨年は四幅ある御絵伝のうち第一幅のみの講座でしたが、今回残りの三幅の中から特に重要な場面をピックアップして、最後まで解説していただきました。

いつもは一回の研修会につき一幅でお話されることが多いようなので、相当無茶な依頼だったと思います。限りある時間の中で丁寧にまとめてくださった宮部先生には本当に感謝です。
お蔭で御絵伝の全体像を把握させていただく、大変よい機縁となりました。

このように実際に御絵伝の場面を大きくしての解説、本当に見やすく分かりやすいです。

スライドの良さは言葉を聞きながら目でも多くの情報を得ることができることです。濃密な時間で、会場にいる皆がぐっと場面に集中している感じが伝わってきました。
スライドを用いての解説の後には、御絵伝の場面に先生が味合われるみ教えを御法話してくださる時間もありました。
御絵伝も日々研究が進み新しい発見などもあるそうです。
親鸞聖人が御流罪になられた背景や、山伏弁円さんとの出会いの意味など、引き込まれるお話をたくさんしていただきました。

今回宮部先生のお話を聞かせていただき、今後『御絵伝』を「自分たちでももっと学ばせていただきたい」という思いが強くなりました。

また、お掛け軸として皆で見て敬えるようにした『御絵伝』は、当時としては画期的な伝道方法であったのでしょう。

私たち青年僧侶が現代社会において親鸞聖人のみ教えを広く伝えていくためには、このように新たな視聴覚伝道について研究していく必要もあると思います。
今回の研修は私たちにとって新たな取り組みの可能性を考えさせられる大変有意義な時間となりました。

浄青僧全国大会 in 築地本願寺。

備龍会が加盟する「浄土真宗青年僧侶連絡協議会」の第25回全国大会が東京築地本願寺で開催されました。

大谷光淳ご門主様ご臨席のもと、開会式が始まり、「宗祖讃仰作法(音楽法要)」が勤まりました。

築地本願寺には立派なパイプオルガンが常設されており、多彩な音色に雅楽と声明が調和して、美しいハーモニーを奏でます。

大会のテーマは「浄土真宗だからできること~僕らの時寺問題2017~」

研修は釈 徹宗先生をコーディネーターにパネルディスカッション形式で行われ、先ず「夜回り先生」として有名な水谷 修先生より問題提起がなされました。

現代社会において多くの悩みを抱える若者たちと深く関わり続けて来られた水谷先生から発せられたのは、数限りない若者たちの苦悩の現状、湧きおこる問題、そこに光を射す事の出来る仏教(お寺)の可能性。それらの提起に、満井秀城・紫藤常昭・脇谷暁融先生がそれぞれ専門とする立場からディスカッションされました。

会場内には、『ダキシメルオモイ』展が併催され、小林憲明さんの作品が展示されました。

麻布に油彩で描かれた作品は、適度に透明感があり、空間に自然と溶け込んでいくようです。

東北の震災以降、福島の親子を中心に描き続けている小林さんは、子供を守りたい、安心して暮らしたい、そんなごくあたりまえがあたりまえでなくなった世の中で

〝ダキシメルオモイ〟

子を抱きしめる親の姿にオモイを込めて描き繋いでいきたいとお話しくださいました。
夜は懇親会にて親睦を深め、それぞれの地で頑張る同じ青年僧侶の姿に元気をもらいました。
有意義な研修が、大きな糧となるように精進してまいります。
東京教区青年僧侶協議会のみなさま、準備等々お疲れ様でした。本当に有難うございました。


おまけ

せっかくの築地ということで、旅のだいご味、会員それぞれ食べ歩きしてましたので紹介してみます。
築地本願寺へお参りの際には、ぜひお立ち寄りの参考に。

「ラーメン井上」
ここは外せないと多くの会員が立ち寄りました。あっさりで朝からでも食べられます。

「きつねやのホルモン丼」
築地本願寺お朝事の帰りに朝7時から食べました。さすがに胃にもたれましたがまことに美味です。

「月島もんじゃ」
研修終わってみんなで食べに行きました。備後ではあまり食べる機会がないので新鮮です。べビスターラーメントッピングというのも斬新です。
その他にも、東京の皆さまにたくさん紹介していただきました。次回来たときにはぜひ立ち寄ってみたいと思います。

すぐれたことば

1月は雪がよく降りましたね。

どうも、私です。

2019年の元日より、新元号に変わると新聞に載っていました。 天皇陛下がお心を述べられ、生前退位の特例法案が国会に提出される見通しだそうです。 何事も、変わることなく続けてゆくというのは難しいことなんでしょうね。
陛下だけの問題ではなく私たちすべてが人間である以上、本人の気持ちとは別に社会的な関係性、地域との関わり、家族の中の関係など様々なつながりに縛られて苦悩しながら生きています。

昨年の9月、某有名漫画の作者の方が40年に渡る連載を終えられました。 続けてこられた単行本の発行巻数は200巻。 記者会見で、
「びっくりさせて申し訳ないです。終わってしまうのは寂しいことかもしれませんが、本当はすごくめでたいことなんです。まだまだ描きたい気持ちはもちろんありますが、ここで一区切りつけたいと思います」
という趣旨のコメントを述べておられました。
このことに対して、今も現役で別な漫画を45年間描き続けておられる某有名漫画家の方が、
「ご苦労さまと言うしかありません。連載があれだけ長くなると、作品が自分のものではなくなるので、やめるにやめられなくなるものなんです。寂しいのと、うらやましいのと、不思議な気持ちです」
とコメントをしておられました。

作家さんの気持ちは私には分かりませんが、終われるということは寂しさの半面、よろこびでもあるのでしょうね。
反対に、続けていくということは嬉しいことでもあるけれど、ツラいことでもあるんでしょうね。
長く描くということは、読者が増え、キャラクターが増えます。それは嬉しいことですが、「次を早く読ませてくれ」という読者の期待がプレッシャーとなり、ストレスになるかもしれません。作り上げた様々なキャラクターに対する責任というものに縛られ、それがプレッシャーになるかもしれません。 最初は好きで始めた漫画家業も、時が経ちファンが増えることによって、「自分の作品」ではなくなっていく。 描く本人のツラいという思いに反して、側の人間の頑張って描き続けてほしいという思いがある以上、いつまでもいつまでも変わらず続けていかねばならないということは、本人にとってはとてもツラいことなんでしょうね。

そう考えると、国民的アニメ「サザエさん」の「カツオ君」はとてもツラいでしょうね。 日曜日の午後6時半にテレビをつければいつものようにカツオ君が出ています、私は「今日のカツオは何をしでかすかな」くらいにしか思って観ていません。 でもよくよく考えてみると、40年以上も小学5年生を続けねばならんプレッシャーとストレスは想像を絶します。 皆さんはカツオ君の気持ちを考えたことありますか? 彼は口には出しませんが、きっと、ツラいだろうと思います。 私だったら、「あと何年させるつもりだ!いい加減この家を出たいし、アルバイトだって恋愛だってしたいんだ!そもそも家庭内のプライベートを覗かれたくない!!」くらいは言ってしまいます。

人間の人生も同じではないでしょうか。 好きで生まれてきたわけではないけれど、いろんなことを経験しいろんなことに喜び、いろんなことに苦しんで、いずれ終わらねばならないことは明らかです。 いろんな人との関係性の中でさんざん苦悩してきた人に、周りの人間には本人の苦悩が分からないから、「がんばろうね」、「笑顔で健康で長生きしようね」と無責任なことばをかける。
皆さんなら、今までさんざん頑張ってきた人に何と声をかけますか。 また、今までさんざん頑張ってきた自分に何と声をかけてほしいですか。
苦悩していくすべてのものを内包する、何者にも妨げられない「すぐれたことば」、それは私の中にはありませんでした。 人間が超えることのできない大問題は人間を超えたはたらきに問うていくしかないのでしょうね。

筆者  島津 慧

島津コラム2

「やさしく学ぶ浄土真宗」

浄土真宗の教えをわかりやすく学べる講座「やさしく学ぶ浄土真宗」を開講いたします。
生死の迷いを超え、生きる意味、死ぬ意味、親鸞聖人のお示しくださった教えを1からやさしく学んでいきます。
ご門徒の方でも、お寺の方でも、初めて仏法に触れる方でも、浄土真宗に興味がある方ならどなたでもご参加いただけます。
皆さまお誘い合わせのうえ、ぜひお越しください!!


  • 日時
    第1回月 2日(木)
    第2回5月25日(木)
    第3回7月13日(木)
    第4回9月14日(木)
    各回15時~18時まで(受付14時半~)
    ※休憩を間に1回取ります
  • 場所
    福山市市民参画センター
    〒720-0056 福山市本町1-35
    ℡084-923-9005
  • 講師:玉木興慈 先生(龍谷大学教授)
  • 講題:「生死を超える」
  • 対象:どなたでも
  • 参加費:各回2,000円
  • お申し込み:電話・FAX・MAIL等で、お名前とご連絡先をお知らせください。
    電話      090-9064-7173
    FAX   0848-47-0140
    MAIL    dragonjournalonweb@gmail.com
    (受付担当者:河村祐昭)

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【福山市市民参画センター地図】%e5%b8%82%e6%b0%91%e5%8f%82%e7%94%bb%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc

分からない事は恥ずかしいこと?

あけましておめでとうございます。2017年も備龍会は色々と活動していきますので、どうぞ皆様よろしくお願い申し上げます。

さて、先日『知ってるつもり、わかっているつもり、できているつもり、は豊かさを失う』という言葉を聞き、大変共感しました。

ある事について私は全て分かっている、できている、と思った時点でその事に対する問いが出て来なくなります。するとその事に対する新しい知識や感性がもう育っていかないことになってしまうのでしょう。

例えば法話では当たり前のように『南無阿弥陀仏はお呼び声だ』と表現します。そんなことは分かっていると思っている人にとっては、これを聞いても別に何の疑問も出てきません。
しかし、素直に分からないと思う人は、何故南無阿弥陀仏がお呼び声になるの?呼び声ってどうゆうこと?誰が誰を何と呼んでいるの?南無阿弥陀仏ってそもそも何?等々、色んな問いが出てきます。そして、その問いを大切にしていくことによって、よりものの見方や味わいが深まっていくのだと思うのです。普段当たり前のように聞き流している事もよくよく味わってみれば、もっと豊かな世界が広がっているのかもしれません。

分からない事は恥ずかしいと思ってしまいます。しかし、分かっていると思っている方が恥ずかしいことなのかもしれません。やればやるほど自分の未熟さが見え、問いが生まれ、そして、その道の達人たちのすごさが身に染みてゆくのだと思います。もー分かった、できた、と思った時点で試合終了なのです!

私はジャズピアニストの上原ひろみさんのファンです。

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いつか一生に一度でいいから上原ひろみさんのような演奏ができたらいーなーと思うのです。そんな事を夢見ながらピアノの練習をしたり、レッスンを受けたりするのですが、やればやるほど、上原ひろみさんの凄さが明らかになってきて、これは私には到底たどり着けない境地だと凹みます。また、この弾き方はどうなっているのだろうと今までなかった問いも生まれてきます。ジャズピアノをやってない時は、もしかしたらある程度練習すれば同じような事ができるのではないか、と思っていましたが、とんでもない事でした。おそらく私がピアノの練習を重ねていく程に、上原さんと私の差が明らかになって益々凹み、分からない事も沢山出てくるのだと思います。しかし凹めば凹む程に、くしくも上原さんの演奏が心にしみてくるのです!!あー悔しいけど、嬉しい!!

https://www.youtube.com/watch?v=-XSYQBBVcQ4

やはり、その道を歩めば歩む程、自分の未熟さ、達人たちのすごさが明らかになっていくのでしょうね。どんな道でもそうなのではないでしょうか。

親鸞聖人というお方こそ、仏道を歩めば歩む程、仏には程遠いご自身の身を知らされ、それと同時に仏様の広大な御心を知らされて人生を歩まれた、豊かなお方だったのではないかと思います。

一年の初めに皆様も、分かったつもり、できたつもり、知ってるつもりになっていないか自問自答をしてみたらいかがでしょうか?その先に豊かな世界が広がっているかもしれません!

私は今年は分からない事は素直に、恥ずかしがらず、遠慮せず聞いてみる事にしてみます。

筆者 伊川大慶