去る2月17日、本願寺備後教堂にて備龍会主催『仏教教養講座』を開催いたしました。この講座は広く一般の方に仏教に触れてもらいたいという願いのもと、年に1回開かれている公開講座です。本年度は奈良県より三浦真証先生をお招きして「歴史に学ぶ浄土真宗の安心~三業惑乱~」と題して、ご講義を頂きました。
三業惑乱とは江戸時代に起こった教義論争であり、この三業惑乱を通して、「浄土真宗の信心」についてお話を頂きました(※三業惑乱の概要については本文最後に記載)。講義の内容はここではすべてをお伝えすることができないほど、充実したものでした。ですので、印象に残った点を2点ほどお伝えさせていただきたいと思います。
まず1点目は、「浄土真宗の歴史を学ぶという事は、自分を問題にするという事が大切である」という事です。先生は「ただ過去にあったこととして歴史を学ぶのではなく、自分の事として歴史を学ばなければ、浄土真宗の歴史を学ぶ意味はない」と教えてくださいました。ただの歴史の知識として蓄えるのではなく、その場に自分を置いて考えるということが非常に重要なことだと思いました。先生は「セカイノオワリ」というアーティストの「ドラゴンナイト」という歌の
”人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかもしれない。だけど僕の「正義」がきっと彼を傷つけていたんだね”
という歌詞を紹介され、正義を握りしめるところに争いがあると、ご講義をくださいました。「過去に三業惑乱という争いがあったんだなぁ」というのではなく、その事を通して「私自身も正義を握りしめて、他を傷つけているのではないだろうか」という視点を持つことを忘れてはならないと思いました。
そして2点目は、「浄土真宗の信心は無条件のすくいにただおまかせするばかり」という事です。浄土真宗の信心というものは、阿弥陀様を信じて、お願いするのではない。「そのままお浄土へ迎えとりたい」と私にすでに願いをかけて、はたらきかけて下さっている阿弥陀様に「そのままおまかせする」のが浄土真宗の信心であると、懇切丁寧に教えて下さいました。さらに現代社会を「総強迫性社会」と表現してくださり、現代社会は「○○でなければならない」という強迫社会であり、そのような現代であるからこそ一切の条件をつけられずそのままの私を、そのまま認めてくださる阿弥陀様のお慈悲は大きな救いになると力強くご講義くださいました。
今回は『三業惑乱』という少し専門的なテーマではありましたが、非常にかみ砕いて、ユーモアを交えてお話くださいましたので、はじめての方でも大変聞きやすいご講義だったように思います。講座終了後、お参りの方々が「わかりやすい話でした」「とてもおもしろい内容でした」と口々に仰ってくださっていたのが、なにより嬉しかったです。
当日はたくさんのお参りを頂き誠に有難うございました。また三浦先生におかれましては、ご多用のところ備後の地までお越しいただき、貴重なご講義を下さり、大変有難く存じます。備龍会会員一同御礼申し上げます。
※三業惑乱とは…江戸時代中期に浄土真宗本願寺派内で教義をめぐって発生した大規模な論争。本願寺派第6代能化(学僧のトップ)功存の教義理解を第7代能化智洞が広めたことにより、惑乱が起こる。この論争は全国を巻き込む日本最大の教学論争になるが、最終的に地方広島の学僧大瀛が正す形で終息するこれを機に本願寺派は、教学理解をとても大切にする教団になっていく。