お供物特集(後編)

お供物特集(後編)では、実際に一般寺院ではどのようなお供物が作られているのか?その実例を中心にご紹介していきたいと思います。

供笥と方立

まず、お供物特集(前編)でも少し触れましたが、主にお供物は供笥(くげ)、または鏡台(かがみだい)・雲脚台(うんきゃくだい)と呼ばれる器具に盛っていきます。

※供笥(くげ)は宗派によって呼称が異なりますが、仏教各宗に用いられます。いつの頃から用いだしたのか明らかではありませんが、室町時代には今のような形式で行われていたようです。

供笥(くげ)の周囲には「方立(ほうだて)」と呼ばれるものを立てます。

「方立」は『真宗事物の解説』西原芳俊著によれば、もともとは「饗立(きょうだて)」と称し、饗膳正式(もてなし料理の膳)の場合に、初めは物のこぼれ落ちないために用いたものが、仏前のお供物の装飾として用いられるようになったそうです。

また、『実悟記』には「香立(方立のことを指す)は華葉を表し、供物は蓮台を表して華束と名づけたるか」とあり、方立は蓮華の花びらを象ったともいわれます。

ちなみに、西本願寺ではこの方立は必ず重なりが左が前になるように立てられています。

お供物実例

お供物は作法の上から①餅 ②お菓子 ③果物 の順に重んじられています。
ここからは実際にお寺でお供物を作られる様子や、完成した姿を、一挙にドドーーン!とお届けしていきます。

①お餅

蓮如上人(本願寺8代目宗主:1415~1499年)の時代の記録を見ますと、お供物はすべて小餅ばかりで、餅以外の菓子や果物に類するものを用いるようになったのは、ずっと後代になってからのようです。

お餅はお寺の方やご門徒の方々が、餅をつくところから、色付け・盛り付けに至るまで、手作りされるお寺も多く見受けられます。
作られる工程を普段はなかなか見ることができませんが、そこには様々な工夫が施され、丁寧にお手間がかけられた大きなご苦労が詰まっています。

②お菓子

お菓子は、後にお配りしやすいもの・食べやすいものが選ばれることが多いようです。また法要後、より素早くお下げして参拝者などにお配りできるように、「お供物ほどき」として解体しやすい形で作られるという工夫も見られます。

③果物

果物は上部写真:左の通称「段盛」と呼ばれる道具を使って盛られることが多いようです。
また、備後で身近な瀬戸内海は〝みかんどころ〟ということもあり、備後ではみかんのお供物を見ることが多いです。

お下がりをいただく

あるご門徒宅での一コマです。
お勤めが終わり、お茶をいただきながら、そのお宅のおばあさまとお話しをしていました。すると、そこに小学生のお孫さんが学校から帰ってきました。

孫「ただいまー!!」

祖母「お寺さんが来てくれとってじゃけぇ、ちゃんとご挨拶しなさい!」

その言葉を聞いて、お孫さんが元気よく挨拶をしてくれました。挨拶にすぐ引き続いて、

孫「おばあちゃん、なんかおやつある?」

その問いに、おばあさまは少し照れくさそうに笑いながら、私に軽く会釈して返事をしました。

祖母「お仏壇にお菓子がお供えしてあるから、手を合わせてお礼してからいただきなさい。」

お孫さんは私の横を通りすぎ、慣れたようにお仏壇の前に座りました。そして手を合わせてお礼をすると、お供えしてあったイチゴ大福を手にし、先にイチゴ大福をよばれていた私の横にちょこんと座ると、「いただきまーす!」と、勢いよく食べ始めました。

祖母「そない慌てて食べようたら喉に詰まらせるよー」


何とも微笑ましいひと時に、こころが温まるようでした。
もしかすると、こういったやりとりは少し前までは多くのご家庭で当たり前のように見られたのではないでしょうか。
今ではずいぶん懐かしい光景になってしまったでしょうか?

「お供物」をさせていただくということは、ひとつに、いのちの恵みを、仏さまのお恵みとして心から喜び、その有難さに感謝していくということです。
そのことを日常的に先人たちは教えてくれていたものです。
日々の恵みを仏さまからの〝お下がり〟としていただくところに、自然と物の有難さがしみついていたのではないでしょうか。

何事も仏様からの〝授かりもの〟として、改めて感謝の気持ちでお礼させていただく一日一日を、共々に大事に歩まさせていただきたいことです。

終わりに

前編・後編にわたってお届けした「お供物特集」いかがだったでしょうか?
皆さまのお寺やご家庭のお仏壇になされるお供物のご参考になるようなことがあれば幸いです。
また、お供物の写真は、これからもこちらのレポートに順次追加してアップしていこうと思っておりますので、ご参考にまたぜひ覗いてみてください。

最後になりましたが、この「お供物特集」に写真提供等々、ご協力いただきました多くの皆さまに深く感謝申しあげます。有難うございました。 合掌

 

 

「カルピスは○○の味」

老若男女問わず人気の「カルピス」、私の娘も飲むと喜ぶ「カルピス」、実は発明者が浄土真宗の僧侶の方だったことはご存知でしょうか。今回はそんな「カルピス」の発明にまつわる物語をご紹介させてもらいます。

生みの親は誰?     

「カルピス」の生みの親・三島海雲(かいうん)は、1878(明治11)年7月2日、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。西本願寺文学寮で学んだ後、英語の教師になった海雲は、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入しましたが、入学後間もなく、大学から中国へ渡ることをすすめられ、1902(明治35)年、当時日本の青少年の憧れの地であった中国大陸に無限の可能性と夢を求めて渡っていきました。

「カルピス」の原点との出会い

中国で教師をしていた後、日華洋行という雑貨商の事業を行なうことになりました。あるとき、仕事で北京から内モンゴルに入った海雲は、そこで「カルピス」の原点である酸乳と出会いました。当地の遊牧民たちが毎日のように飲んでいた酸っぱい乳をすすめられるまま口にしたところ、そのおいしさと健康効果に驚きを受けました。長旅ですっかり弱っていた胃腸の調子が整い、体も頭もすっきりしてきたのです。その酸っぱい乳が乳酸菌で発酵させた“酸乳”だったのです。酸乳を日常的に摂取しているモンゴル民族のたくましさに驚き、自らも酸乳の健康への効果を体験し、その力を実感しました。

「カルピス」の発売

「醍醐素」(乳酸菌で発酵させたクリームを商品化した「カルピス」の前段階の商品)を改良したおいしく体に良い飲み物として開発したのが、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」でした。海雲は、「カルピス」の本質は、“おいしいこと”、“滋養になること”、“安心感のあること”、“経済的であること”の4つだと言っています。1919(大正8)年7月7日の発売以降、「カルピス」は時代を経て、やがて“国民飲料”として愛される商品へと成長しました。その一方で、海雲は、その生涯をかけて『国利民福』への思いをつらぬきました。『国利民福』-国家の利益となり、人々の幸福につながる事業を成すこと。それは、海雲の生涯をかけた目標でした。

「カルピス」の語源

脱脂乳を乳酸菌で発酵させた飲料「醍醐素」に砂糖を加えて2日ほど放置した結果生まれたのが「カルピス」の元で、日本の食事に不足していた「カルシウム」を混ぜて「カルピス」が完成したことが名前の由来となっています。ここから「カルシウム」の”カル”、サンスクリット語(古代インドの言語)の「サルピス」から”ピス”をとって「カルピス」と命名されました。「サルピス」は仏教で五味と呼ばれる乳・酪・生酥・熟酥・醍醐の中の熟酥(じゅくそ)を指します。カルピスの元になっている醍醐は五味で最高位にあたりサンスクリット語で「サルピルマンダ」と呼ぶため「サルピル」や「カルピル」といった案もあったが、音声学の権威・山田耕筰に相談し響きの良さを重視して醍醐の次位である「サルピス」からとって「カルピス」となったそうです。

「カルピス」誕生の裏にこのような物語があることに驚かされると同時に、遊牧民の優しさと青年僧侶の偶然の出会いが今も多くの方々に親しまれているあの味を生んだことに不思議なご縁を感じずにはいられません。初恋の味だけではなく、ご縁の味でもあったと味わわせてもらいました。これからの3・4月は出会いと別れの多い時期ですね、今日は「カルピス」で乾杯!

筆者 武田大俊

 

出典:アサヒ飲料(株)カルピス事業ブランドサイト
http://www.calpis.info/story/developer//
(物語・語源の部分は上記サイトより抄出し引用させてもらいました。転用を御快諾下さいましたアサヒグループWebSite事務局の皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。)