昨今、自宅で過ごす時間が増える中、そのおうち時間をいろどる趣味等をはじめられる方が増えているそうです。
私もそのうちの一人で、何か新しい趣味をと生け花をはじめました。
「生け花」
こう聞くと、
「そんなのただ花を適当に花器に生けるだけだから簡単だ」
と思われるかもしれませんが、これがなかなかそう簡単ではありません。
私は「閑渕流(かんえんりゅう)」という流派の教室でお花を習っているのですが、その流派で決められた様式の中で、手元にある花材の中から器とのバランスを考え、どの花を中心に添えるのか。
同じ花でも、手前に生けるのか、それとも後ろに生けるのかでがらっと全体の印象が変わってまいります。なので、私もお花を始めたての頃は、そういったことを考えながら生けていると、小一時間くらいあっという間に時間が過ぎていたなんてことがよくありました。
はたから見れば、何をそんなに時間をかけることがあるのかというところですが、こうした、考えながら生けている時間が楽しいのです。
どのように生ければ良い花になるのか。あーでもないこーでもないと、一輪一輪丁寧に生けていく。そうした試行錯誤の上出来上がった作品の唯一無二感はたまらないものがあります。
ところが、ここで一つ問題がございます。教室で生けた花を家に持ち帰り、同じように生けなおしても、あの唯一無二と感じたものとはどこか違うのです。その原因は何なのか。目の前の作品をあらためてよく見てみると、原因がわかりました。
そう、器が違うのです。教室で使用していた花器と家の花器とでは形が違うため、同じように生けても全体のバランスが違ってしまうのです。ですから、あらためて花器にあわせて生けなおすのですが、一度良いと思ったものをなおすのはなかなか抵抗があるものです。
そこで、ふと思うのです。思えば、私自身これまで積み重ねてきた経験等を大切にして生きておりますが、そのせいで人と意見が合わずぶつかってしまうことがございます。それもそのはず、その相手と私とでは育ってきた環境の違いから得てきたもの(器)が違うため、意見が違ってもやむを得ないのです。
であるにもかかわらず、こちらの意見や価値観をそのまま押し付けるようなことをすれば、それは相手に合わなくても仕方がありません。
けれど、そうではなく、器との調和を大切にする生け花のように、相手の相(器)を想いながら言葉を届けていくことの大切さを、私は生け花を通して学んだような気がいたします。
「花を生ける」ただそれだけなのに、なんとも奥が深いものでございます。
会員 金岡 恒宣