備後じゃけぇ~

はじめまして、今月の備坊録を担当させていただきます林と申します。九州は熊本の出身で、結婚を機に三原市で生活をさせていただいております。よろしくお願いいたします。

 

移り住んでようやく一年が過ぎ少しずつ慣れてきましたが、はじめの頃は戸惑いも多かったです。

その一つが方言。備後の言葉で「□□さんが、○○しとっちゃった。」(「□□さんが、○○してた。」の軽い尊敬語。例えば、京都弁でいう「○○してはった。」)と初めて聞いたときは、何かしでかしてしまった(「○○しちゃった。」)のかと思いひとりで焦り、買い物で妻に「たわん!」(備後弁で「とどかない!」)と言われたときは「買わん!」に聞こえ「何しに来てん!」とつっこむ始末。私にとって「タモリ」(瀬戸内海でよく捕れるセトダイというイサキ科の魚を、備後沿岸部ではこう呼ぶそうです。)は魚ではなく「いいとも――っ!!」であります。

 

そんな中、備後の地に住んで感じたことは、何より住みやすいということです。一年を通じ比較的温暖な瀬戸内気候、九州では毎年悩まされる台風の影響もほとんどなく、三原は冬の雪の量も少ないです。(北部の方ごめんなさい…。)また海と山、両方の幸が豊富で美味しいものが多く、近くの山の頂上から眺める瀬戸内の多島美は私のお気に入りです。

※三原、竜王山山頂より東を望む。左奥に見える町が尾道。

 

ところが、日々様々な方々とお話しさせていただく中で、

「うちは備後じゃけぇ~。」

という少し消極的な言葉をしばしば耳にすることがあり、それを聞いての私の印象は、備後は控えめな方が多いのかなというものでした。ところがこの地で生活をする中で、近代の仏教界に大きな影響を及ぼした二人の人物が備後の生まれであったこと、また浄土真宗のお聖教の中で備後の地で著されたものがあるということを知りました。今回はそれらについて少しお話したいと思います。

 

まずは、二人の人物について。

一人目は、三原市八幡町出身の高楠順次郎です。高楠は幼い頃から漢籍(漢文で書かれた中国の書物)に通じ、なんと14歳で小学校の先生になったと言われています。後に、京都本願寺立普通教校(現龍谷大学)を卒業しヨーロッパに留学、イギリスのオックスフォード大学をはじめ、ドイツ・フランス・イタリアの諸大学でインド学など様々な学問を修め、サンスクリット語(古代インドの書き言葉)やチベット語・モンゴル語などを習得したようです。日本へ帰国後は東京大学で教鞭を執り、後に東京外国語学校(現東京外国語大学)校長、東洋大学学長を歴任、本願寺関係の学校の一つである武蔵野大学を創設しています。また、高楠は近代の仏教学研究の基礎を固めた最大の功労者のひとりと評価されていて、中心となって刊行した『大正新修大蔵経』は、現在も宗派や大学・研究機関を問わず漢文で書かれた仏教書を用いる研究者の共通のテキストとされています。おそらく、日本で仏教を研究する人の中で、彼の名を知らない人はいないでしょう。

 

二人目は同じく三原市出身の渡辺哲信です。実は哲信は私の妻の高祖父、つまり“ひいひいおじいさん”です。身内で大変恐縮ですが、是非この機会に皆さんに知っていただきたく書かせていただきました。

※インドへ向かう前の大谷探検隊。一番右が後の大谷光瑞第22代門主、前列左から二人目が渡辺哲信。

 

哲信は広島中学を卒業後、京都文学寮(現龍谷大学)に入学します。その後ロシア等への留学を経て、後の浄土真宗本願寺派第22代大谷光瑞門主が率いる第一次大谷探検隊に参加します。哲信は同じく文学寮出身の堀賢雄と共に、中国新疆省(現新疆ウイグル自治区)にあるホータンやクチャなどの仏教遺跡を中心に調査を行いました。彼らは、パミール高原を越えてタクラマカン砂漠を横断した最初の日本人です。

ちなみに、クチャは私たちが普段お唱えする『仏説阿弥陀経』を漢文に訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)三蔵法師の出身地とされています。

※お勤めで読むことはありませんが、お経本には経題の後に「姚秦三藏法師鳩摩羅什詔譯(後秦の時代、鳩摩羅什三蔵法師が、時の天子の命によって訳しました。)」とあります。

 

彼ら大谷探検隊によってもたらされた資料の一部は、東京国立博物館や龍谷大学大宮図書館に所蔵されています。これらの資料は、発見された地域の歴史研究はもちろんのこと、インドで興り日本へと伝わった仏教がどのような過程を経て今のようなものとなったのか、についての貴重な資料となることでしょう。今後の更なる研究が期待されます。

 

※インド霊鷲山(りょうじゅせん。別名、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)。お釈迦様が『無量寿経』や『法華経』を説かれた山)山頂より見る夕日。実はお経に出てくる霊鷲山がこの山であると特定したのも第一次大谷探検隊です。

 

最後に、ここ備後の地で書かれた浄土真宗のお聖教をいくつかご紹介したいと思います。それは本願寺第三代覚如(かくにょ)上人のお子様、存覚(ぞんかく)上人が書かれた『決智鈔』(けっちしょう)・『法華問答』(ほっけもんどう)二巻・『歩船鈔』(ぶせんしょう)二巻・『報恩記』(ほうおんき)・『選択註解鈔』(せんぢゃくちゅうげしょう)五巻・『至道鈔』(しどうしょう)の六部十二巻です。

存覚上人は、浄土真宗の根本聖典である親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を初めて『六要鈔』という書物で註釈された方であり、後代の真宗僧侶の多くはこの方の書物で親鸞聖人のみ教えを学びました。本願寺第八代蓮如上人もそのお一人で、常にご覧になっていたそうです。

その存覚上人は49歳頃(暦応元年、1338年)、備後に滞在されていて先ほどの書物を著されました。その内容は、当時行われた他宗の方々との議論をきっかけにお念仏の教えについて書かれたものや、仏教各宗の概説、法然聖人の『選択本願念仏集』の解説など様々です。これらの書物から存覚上人がいかに広く仏教に通じておられ、お念仏の教えを伝えていくために尽力されたかがわかります。

 

なお、存覚上人が著されたお聖教の本文や解説は以下の書物に収録されています。

浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室〈聖典編纂担当〉

『浄土真宗聖典全書(四)相伝篇上』 本願寺出版社 2016年

 

以上、今回は備後出身の二人の人物と、存覚上人がこの地で著されたお聖教を非常に簡単ですがご紹介させていただきました。もちろんこれらだけでなく、備後の地は多くの僧侶・仏教学者を育み、その方々のお陰で現代の私たちが知ることができたこと、聞くことができたお話もたくさんあります。先人のご苦労には、ただただ感謝するばかりです。

 

正直いいますと、これまで九州出身の私にとって、備後という土地は関西方面への通り道であり「広島の次は?」と聞かれたら迷わず「岡山」と答えていました。ところがこの一年で、その間に真宗だけでなく仏教全体の歴史の中で大変大きな役割を果たしてきた土地があることを知りました。備後に移り住んで一年の私は、まだまだ知らないことだらけですが、これからもっとこの地の歴史・自然・人物などについて知り、その魅力にふれていきたいと思います。

 

これからは…

 

備後じゃけぇ~f^_^;)

 

いえいえ!!

 

備後じゃけぇ~~!!\(^O^)/!!

 

筆者 林 龍樹