まずもって、先般の豪雨災害に被災された皆様に衷心より哀悼の意を表します。

豪雨の最中、テレビから伝えられる知らせに恐れを覚え、また日が経ち、少しずつ伝わってくる近在の被害状況、マスメディアを通じて知らされる遠くの甚大な被害の様子にただただ驚くと同時に、お亡くなりになられた方々の知らせに胸を痛めたことです。

 

私の住む町も多くのお宅が床下、床上浸水に見舞われ、水が引いた翌朝から多くの方が屋外に荷物を運び出され、町内をレッカー車がひっきりなしに出入りし、災害ごみの集積所となった町内の公園には畳や建具、家具、家電製品と様々なものが山のように積まれていきました。

まさに非日常の光景です。

そんな中で人々の関わり合いもいつもとは異なる様子となりました。

 

町内に以前は田んぼが広がる地域がありました。近年田んぼを止められる方が増え、代わりに新しい家が立ち並び、小さいながらもある種、新興住宅地のような雰囲気があります。

その辺りはどことなく人と人との関わりが希薄なように感じます。

“子供同士が同級生”とか、“昔からの顔なじみ”など、特別な縁がないとご近所さんとも疎遠で、挨拶しても会釈で済ますようなことも多く、表札を上げていなかったら、お隣さんのお名前もお向かいさんのお名前も存じ上げないが、それが当たり前、平素はそんな様子です。

 

しかし、この度の災害に遭い、みんなが復旧を目指し動き始めますと、多くの方が互いに声を掛け、労い合い、時に協力し合って作業を進めているのです。

「大変でしたね。お宅は大丈夫でしたか」

「うちは床上まで水が来て畳が浸かってしまい、知人に聞くと匂いが取れないからと買い替えをすすめられました。お宅は大丈夫でしたか?」

「うちは床上まで水は来なかったのですが、床下に水が入り込んでしまい、水が溜まったままの状態です。家財道具などに問題はないのですが、どうやらこのままにしておくと床下が菌の温床になるそうで、どうやって抜いたらいいか頭を抱えているのです」

 

すると、中には、

「重たいものを運ぶのなら手伝いましょうか」

「排水ポンプがありますからよろしかったらお貸し致しましょうか」

なんて言葉が飛び交い、

「ありがとう」「助かりました」

という声が聞こえるようになったのです。

 

何故、苗字も知らず、挨拶も会釈で済ませる間柄が、突然にもお互いを気にかけ、助け合い礼を言い合う仲になったのでしょうか。それはお互いの事情を知ったからだと思うのです。

口見舞いを通じ、今まで知り得なかったこと、例えば、

「子供も小さく、親元が遠く、親戚も近所にいなくて…」

と聞けば

「大人の手が足りていないのでは…」

と察しますし、

「水を抜く道具がなくて困っているのか」

と知り、手前に道具があるなら

「お困りならばお貸ししましょうか」

となった。

知らなければ気にも留めないし、手を差し伸べることもなかった。けれども、お互いの事情を知ったから、助け合い、礼を言う間柄になったのでしょう。

私たちはお互いの事を知る事で少しやさしくなれるのかも知れません。

 

7年前、2011年の末、京都の清水寺さんで発表されたその一年を表す漢字は“絆”でありました。

東日本大震災や台風、大雨被害など、大規模な災害を経験する中、望まずとも突然に家族や仲間と死別の別れを迎えられたり、普段は頻繁に連絡をとる事のない縁故の方の安否を気にして連絡をとったり、また平素お付き合いも希薄な者同士が不安な日々を過ごす中、お互いに助け合い、気遣い合う経験を通じて、改めて身近な方々との“絆”の大切さに気付くきっかけとなったと。

 

この度、私自身もその渦中において改めて“絆”の生み出す温もりというものに気付かされたように思います。

 

しかし、辞書を引いてみますと、“絆”という言葉には“人と人との結びつき、支え合い、助け合い”という意図とは異なる意味があることを知りました。

牛や馬などの家畜につないである綱のことも“絆”と言うそうです。牛の鼻に輪をつけて、そこに紐を結び付けて、引っ張って行く、その綱を“絆”と言うのです。転じて、生き物を引っ張ってくれるもの、導いてくれるものという意味なのだそうです。

 

浄土真宗の御本尊は阿弥陀仏です。阿弥陀仏は五劫思惟、兆載永劫のご修行をなされた仏様です。

劫とは古代インドの時間の単位で、極めて長い、途方もない時間を示します。

その時間は阿弥陀仏の“あなたを必ず仏に成らせる”という救いの完全性をあらわすと同時にご苦労をあらわしておられます。

何のご苦労でしょうか。それはこの私を知り抜く為に掛けて下さったご苦労ではないでしょうか。

 

先にも申した通り、私たちはお互いの事を知ることでやさしくなれるように思います。しかし、どれだけ思慮を重ね、配慮しても必ずしも相手の思いに添える訳ではなく、何なら“よかれと思って…”が他人を傷つけてしまうこともあります。

何故なら、“私たちは同じことが起きてもその時その時で味わい方が異なるから”ではないでしょうか。

単純な話、空腹時に食べ物を頂けば嬉しいですが、満腹時に食べ物を頂いても、お気持ちこそ嬉しくても空腹時のようには喜べません。何なら、それがその場で頂かなければならないような品であれば時として迷惑に感じることもあるでしょう。

また、“一人一人、趣味趣向が異なるので、誰もが同じことを喜ぶわけではない”ということも原因でしょう。

甘いものがお好きな方であれば甘いものを頂けば喜ばれますが、苦手な方なら時としては辛いこともある。

残念ながら、私たちがどれだけ苦心しても必ず相手の思いに沿うことができるわけではない、とどのつまりは自分の物差しで相手の気持ちをおもんばかるのが精一杯なのです。

そして、苦しければ苦しいほどに、“誰も私の事を分かってくれない”“誰にも私の事は分かる訳がない”と塞ぎ込んでしまうのが私のように思います。言うならば、“差し出された手すら敵意のように見える”、絆を断ち切ることでしか自己を守れない、そんな時だってあるのです。

そんな私を目当てとされた阿弥陀仏だから、途方もない時間をかけて私を知り抜く必要があったのでしょう。

阿弥陀仏は私の命を問題とされた仏様です。“おもんばかって、結果どうだか分からない”では話にならないのです。

望まぬ出来事も避けて通る事が出来ず、あてにしているものが脆くも崩れるこの世を生きていく上で、どのような事があろうと変わらぬ“あなたを必ず仏に成らせる”という救いを示し、辛く苦しい時、“神も仏もあるものか”とすら思う私をも見捨てることなく、目当てとし、導かんとはたらき続けておられるのが阿弥陀仏です。

 

人と人とのつながり、支え合う“絆”の大切さに気付かされ、また、どのようなことがあっても変わらず私を支え導く“絆”についても考えさせて頂いた事です。

 

皆様は今、どのような“絆”に支えられ、導かれていらっしゃいますか?

筆者 石川 知全